心がけ23 ぴったりくる表現の形を見つける

約20年前の2000年代初め、作家の田中康夫さんが長野県知事に当選。取材記者として東京本社から長野支局に赴任しました。このころには自分の出た小学校の名前が「更級日記」の題名になっていることのすごさに気づき、郷里の歴史を熱意をもって調べていました。当時の上司がそのことを知っていて、故郷を取材してこいという感じで着任しました。
既得権益の打破、ダムといった大型公共事業の見直しに代表される田中さんの政策は大きな対立をもたらし、田中さんの言動から目が離せない日々でした。対立する両者への取材はなかなか容易ではありませんでしたが、長野県を住みやすい場所にしたいという思いは、取材相手の人たちに勝るとも劣らないという姿勢でのぞみました。
2年という限られた期間だったので、善光寺の上の往生寺地区に住まいを見つけ、小学生の長女は善光寺の境内を通った先の城山小学校、次女は善光寺保育園に通わせました。高校を卒業以来、約20年ぶりの故郷での暮らし。行ったことのなかったいくつもの県内の地を取材で訪ね、2度の季節のめぐりに触れ、往生寺や善光寺かいわいを娘たちとめぐることは楽しかったです。
東京に戻るころになると、20年ぶりにふるさとで暮らしたことを何かに表現したくなりました。仮住まいの家の窓際に転がっていた次女のクレヨンの色が、寺の幕やひもの五色の色に見えたことを人に伝えたい、それにはどうしたらいいかと思っており、本社に戻ってから「姨捨の男」という文章にまとめました。20年ぶりに長野県で暮らした姨捨山(冠着山)のふもとの男のお話、という体裁の400字原稿用紙30枚くらいのものです。
仕事にプライベートに、調べたことを書くということをやってきましたが、20年ぶりの故郷暮らしの総括は「姨捨の男」を主語に、物語(フィクション)として書くのがいちばんぴったりくる感じでした。
「姨捨の男」はほかの関連する自分の文章を加え、さらしな堂で制作、本にしました。