古今の詩歌を「折々のうた」として新聞連載していた大岡信さんの著書に、文章を作るのに参考になる、興味深い記述がありました。「詩歌ことはじめ」という本で、その中の一説に「なぜわたしは古典詩歌を読むか―『折々のうた』拾遺」があり、連載を始めたときの読者の反応に関する「発見」を書いています。
「折々のうた」は、短歌や俳句などを毎日一つずつ取り上げ、約180字の解説文を添えるコラム(1979年から2007年朝日新聞朝刊1面)。始めて1カ月ほどは、「何に載っているか」「どこに行ったら買えるか」という問い合わせがたくさんあったそうです。それで「〇〇所収」と入れたり、発行年を入れたりするようになったそうです。大岡さんは、この体験から「人間性の問題としても」面白く感じることがあったと書いています。以下はその記述です。

つまり人間というものは、あるものをさし出されると、たとえばこの場合詩歌作品をさし出されると、さし出した人がその人の主観において、いいとかつまらないとか言ってみても言われたほう(読者)の立場からすると、その相手がかりに完全無欠な立派な人であっても、言われた側が不安になるということがあるんですね。ある作品の根っこがどこにあるか、たとえば歌集名や発行年、作者の出生地や経歴など、ごく初歩的な知識がくっついていると納得するということがある。もしそれがわからずに、ものを言ってくれる人の主観だけで判断したことを押し付けられるような場合には、読者は不安になり、納得できないんですね。これはある意味では小さな、つまらない発見にすぎないんだけれども、私にはやっぱり一つの発見でありました。

「折々のうた」を切り抜いて保存しておきたくなったのは、大岡さんの端的な解説や端正なコラムデザインであることに加え、もっと知りたいときの手がかりや資料性があったからだと思いました。作文の説得力は、文章の長さや量に関係はないと思います。
大岡信さんは2017年、86歳で亡くなりました。「詩歌ことはじめ」は1985年、講談社学術文庫から発行されました。