身体(からだ)には時間が蓄えられている―という指摘を読んだとき、後半生に入ったわが身に光りが差しました。歌人の高野公彦さんの著書「地球時計の瞑想」の中にあったもので、「歌を作るとは、自分の身体に蓄えられた固有の時間をとりだして言葉を与えることである」という一文です。
これを読んだとき、生きること、歴史を学ぶことは身体に時間を蓄えることだと思いました。自分が生まれていなかった時代も含め、身体にはさまざまな時間が行き渡り、血液のように体内をめぐっており、それが自分の現在の時間と出会って、化学反応を起こしたときに生まれる表現の一つが短歌であると解釈しました。年を重ねるのは悪くない、年を重ねることでしか表現できないこと、書けない文章があると確信しました。
身体は時間です。時間がからだのすみずみに行き渡っているからこそ、からだや頭を使うことの多かった昔の暮らしや学んだ歴史の記憶が、なにかのきっかけで自分の現在とスパークし、尊いもの、美しいものとして蘇えったり、物語になったりするのではないでしょうか。短歌はそのスパークを表現するのに向いている手段だと思います。
時間を身体に蓄えた人はあまたいる時代です。身体がなくなると、蓄えられた時間も消滅します。