古来都人のあこがれだった更級郡の消滅が残念で、「更級への旅」というかわら版を発行して約20年になります。当初はさらしな堂の前身である大谷商店に来てくれたお客さんに自由に持って帰ってもらい、閉店後はインターネットのサイト(さらしな堂アネックス)で読んでもらっています。「さらしな」という地名にまつわる歴史や文化を、いろいろな角度から紹介してきて思うのは、過去は意味づけと解釈で新しいものとして立ち現れるということです。
 これまでの「更級への旅」では、まだ知られていない事実や文化を発掘することもありましたが、多くはすでに過去に発表された調査研究や昔は多くの人が知っていた事実に、わたし流の意味づけや解釈をして紹介したものです。光りの当て方次第で、こんなふうにさらしなは今でも魅力的なんだという感じです。
 だれもが過去を持っています。そのままの過去だと、古臭い、むかしの話になってしまいますが、光りの当て方、意味づけによって新鮮なものになることがあります。新聞の歌壇には、ロシアのウクライナ侵略以降、この悲劇をめぐる歌が載るようになりました。日本が当事者となった約80年前の戦争がよみがえる歌もいくつもあります。例えば2022年5月2日付の読売歌壇にのった次の一首

  ラーゲリに死にし義父あり「避難」と言う強制連行ありて危うし  東京都 青木洋子

 敗戦後、日本兵がソ連のシベリアに強制連行されて過酷な労働を強いられ大勢が死んだ過去の歴史と、ウクライナ国民が「避難」という名目でシベリアに移送されている現在の歴史を重ね合わせた歌です。作者の義父の悲劇がこのように短歌によって現在の私たちに届く意味づけがなされています。
 言葉遣いに慎重にならなければなりませんが、かわら版「更級への旅」を読んでくれている方から「楽しい歴史だ」という感想をもらったことがあります。わたしの光りの当て方によって、過去が現代の人に新しいものとして届いたと思うようになりました。