「身体は時間を蓄えている」という歌人高野公彦さんの指摘が、すっと入ってきた短歌があります。

  帽ぬぎて初湯にひたる千利休しんから田中与四郎となる 高野公彦

これは2019年の元旦、高野さんもその一人である朝日新聞歌壇選者詠のコーナーに高野さんが寄せていた1首です。千利休といえば帽子を被った茶人のイメージが強烈です。信長や秀吉といった天下人との付き合いは緊張感がすごかったでしょう。そんな利休も元旦のお風呂では茶人のシンボルである帽を取り、本名である田中与四郎に戻って初湯を楽しんでいる…
高野さんは、事実として確認したうえでこの短歌を作ったわけではないでしょう。しかし、書物などから利休の生きざまや生涯を知っており、新年最初の歌を朝日新聞から求められたとき、高野さんの身体の中に蓄えられた戦国の世という時間がスパークし、そのスパークに高野さんが言葉を与えたと考えられます。
短歌ってこういうものでもいいんだと励みになりました。わたしは後半生に入ってから短歌を始めたのですが、わたしの身体にも蓄えられた時間はけっこうあるぞと気づいたからです。
身体は時間であるという高野さんの指摘は、短歌を作ることだけにあてはまるものではありません。エッセイのような散文も「身体に蓄えられた固有の時間をとりだして」書くものです。固有の時間をいくつもとりだして、短歌や散文を書き、それを集めれば、自分史です。
からだには過去の学びや経験が時間として蓄えられていると思えたので、意識的にからだのすみずみに時間を行き渡らせるようにすることがあります。散歩、体操、柔軟もそんなイメージでやると気持ちいいです。