新聞記者の仕事をしているとき、映画や美術といった芸術系の催しが終わったあと、観客に感想を聞くことがありました。記事を作るには必要な要素だったからですが、自分が観客の場合は感想を聞かれるのが嫌いだったので、気が乗りませんでした。
拒否されそうな人は最初から選ばなかったせいか、大半の人は答えてくれたのですが、メモを取りながら「無理に言葉を作ってるなあ」と思うことがありました。「そういう見方があるのか」とか「うまいことを言うなあ」と感心することもありました。
自分が聞かれたときは面白くなければ答えないという態度を示せばいいのですが、とても感動したときはつらいものです。「よかった」とか「感動した」とか「すごかった」ぐらいしか見終わった後は言葉にならないのものでした。だからといって、自分を卑下する必要はまったくないということがわかったのは、おもしろかった映画や美術展などを自分の文章で紹介するようになってからです。
新聞記事にするときは、見終わったあとも、どうしてあの言葉や場面に心が動いたのか、よく分からないけどなんかいいと感じたのはなぜかなどと意識的に考えました。時間をかけるとそれなりの答えが自分の中に見つかって、そうなると記事は書きやすくなりました。
すごかった、おもしろかった、きれいだった…。そのように動かされた自分の心をのぞいてみたり、掘ってみたりする。なかなかうまく言葉にできないとしても、心は確かに動いたのです。伝えたい相手がいれば、言葉になるのを待ちます。