「作文」という言葉から受ける印象。わたしは新聞記者を志望したとき180度変わりました。苦手で嫌いなのが学校の作文だったので、入社試験で「作文」が試験項目として明記され、とても重視されているのを知ったときは驚きました。時事情勢や漢字に関する試験以上に、作文が評価の対象だったんです。
元新聞記者が講師の文章講座や、通信社のジャーナリストセミナーを受講し、そのことを知りました。題を与えられて実際に作文し、講評を受けたりする中で、作文にはその人の本質的な部分がどうしても現れてしまい、採用側の人たちはそこを見て、判断するのだと解釈しました。
わたしが記者を目指した40年近く前から、志望者の作文の書き方というマニュアルのようなものがありました。自分の体験や経験を社会の問題とも絡めながら考察、つまり何を発見したかというようなことを、起承転結の構成で書くのがいいということでした。この型にうまくはまれば上手な文章ということでした。
就職した通信社の作文で出たテーマは「年」。1時間以内に、400字原稿用紙2枚に書きなさいというものでした。マニュアルに従い自分のどの体験を書けばいいかいろいろ考えるのですが、そもそもそんなに経験があるわけではありません。適当な社会問題も思い浮かばず、甲子園で活躍する高校生はずっと自分より大人に見えるのに、いつのまにか自分より年下ばかりになっている…その驚きというか発見を書いたと記憶しています。
その作文がよかったから採用になったのか確かなことは分かりませんが、そうとしか書けなかったのがそのときの自分でした。抽象的なテーマだと、よりその人のものの考え方や見方が現れます。「作文」は自分が現れる、本質的なものを見て取られてしまう恐ろしい表現だと知りました。逆に言うと、「作文」は自分という人間を知ってもらう有力な手段です。