「姨捨文学館」―千曲市教育委員会文化財係長の矢島宏雄さんから最近、この言葉を聞きました。古来、歌人・俳人ら、あまたの人のあこがれの地であった「さらしな・姨捨」にまつわる文献や遺産が当地にはたくさん残っているのですが、個人の所有でいつも見られる訳ではなく、価値を見出されていないものも多いと感じていたので、企画展などで紹介される場ができれば大変ありがたいです。まだ、構想の段階で具体的にはなっていないそうですが、「月の都」としての当地には欠かせない公共施設だと思います。(2010年8月15日記)
仰ぎ見る姨捨
設立するのならどこがふさわしいかということに関心が及びますが、矢島さんは千曲市八幡(旧更級郡八幡村)の武水別神社近辺が一つの候補ではないかとお考えのようです。矢島さんは、当地の姨捨棚田が今年2月、国の重要文化的景観に指定されるのに当たって、調査や資料の取りまとめを中心になってしてきた方で、指定の根拠にもするために制作した「姨捨棚田の文化的景観歴史的調査報告書」を見せてもらいました。この内容などを踏まえると、一つの候補地として説得力があると思いました。
調査研究の結果明らかになってきたのは、武水別神社から長楽寺、近辺の棚田、そして冠着山(姨捨山)を見上げるラインが中世以降、姨捨の霊的な景観として崇められてきたのではないかということです。中世というのは鎌倉から江戸時代前までのことですが、当地に伝わる文献では川中島合戦の一方の雄、上杉謙信が同神社に捧げた願文にそれを裏付ける記述があるそうです。願文とは神仏にどうしてもかなえてもらいたい願いを書き留めた文書。戦いの神でもある八幡神をまつる武水別神社は当時、合戦の舞台に近在する格好の戦勝祈願の場でした。
同神社の代々の神主を務めてきた松田家の屋敷群の復元整備も千曲市教育委員会では進めているのですが、見つかった文書や品々などから武水別神社一帯が、そうした歴史・文芸・信仰の集積する場になり当時の有力為政者らも参集する拠点になっていたこともうかがえるそうです。江戸時代になって松尾芭蕉が長楽寺を中心とする姨捨を訪れたのは、こうした歴史の上に立ってなのです。
「姨捨文学館」という構想は実は、かなり前から姨捨に関心のある人たちの間では話題になっており、JR姨捨駅舎も候補に挙げられていました。武水別神社の北に隣接する稲荷山宿の白壁蔵をはじめとする家屋も歴史的建造物として保全する動きも進んでおり、これも冠着山を意識した街並なので、冠着山から稲荷山までのスポットは歴史的には線でつながります。線でつながれば面にも広がり、姨捨棚田を含め歴史的に一つの空間として位置付けることが可能なので、「姨捨文学館」はこの面の中にあってもおかしくはありません。
見晴らす姨捨
「月の都」としての当地を活気づける構想だと思いました。この構想にさらに加えてほしいと思うのは、坂城町寄りの国道18号線沿いの旧埴科郡地域も月の都として当地を知らしめるのに、大きな役割を担ってきたということです。シリーズ80で、芭蕉の句「俤や姨ひとりなく月の友」を石に刻んだ「面影塚」を長楽寺建立した加舎白雄のことを紹介しましたが、白雄を物心で支えた有力スポンサーは、現在の坂井銘醸(旧埴科郡戸倉村、千曲市戸倉)です。白雄の残した文書をたくさん保管しており、一角には「加舎白雄記念館」を併設しています。
白雄の弟子だった宮本虎杖は戸倉の生まれの人で、彼のおかげで姨捨はさらに世に知られました。現在の戸倉地区を走る国道18号は、江戸時代に開かれた江戸と日本海側地域をつなぐ北国街道と重なるルートで戸倉村は宿場でもありましたから、江戸時代は人や物、情報がたくさん集まりました。江戸方面からやってきた人はまず戸倉で、少し先、千曲川の対岸にある姨捨関連の情報を宿に泊まるなどして得ていたのです。
江戸時代にはもう一つ、西日本から善光寺に至る善光寺街道も整備され、当地へはたくさんの人が筑北の山間地から下って入ることになりました。棚田も長楽寺周辺に盛んに作られるようになり、このため姨捨は中世の「(上方を)仰ぎ見る」景観から「(遠方と下界を)見晴らす」景観に変わり、これが現代につながっていると、「姨捨棚田の文化的景観歴史的調査報告書」は考察しています。同じく整備された北国街道との間には千曲川を挟んで両域を往来するルートもにぎわい、中秋にはちょうど凹んだ中央部から月が姿を現す鏡台山(埴科郡)も月の都に欠かせない景観の仲間に加わっていった可能性があります。東西南北、四方から人々が参集し景観を楽しむようになり「月の都」としての当地の評価が定まっていったのです。
一方で、芭蕉の来訪をきっかけに長楽寺近辺があまりにも有名になって中世までの姨捨山(冠着山)の存在が軽んじられてしまったので、ふもとの旧更級村初代村長は明治なって、復権運動に取り組み、「更級」の名称を、更級小学校などに刻印しました。中世以前、古代(平安・奈良時代)までの更級・姨捨の原型とも言える遺産は旧更級村(現千曲市更級地区)が留めているように思います。
このように考えると、「姨捨」は合併でなった現在の千曲市全域のものです。姨捨はさらしなの一部でもあるので、文学館が設立されるとしたら、名称は「さらしな・姨捨文学館」?。いや、白雄や虎杖ら姨捨にまつわる旧埴科郡域の資料も千曲市は保管しているので、「月の都文学館」ではどうでしょうか。
上の写真はシリーズ99で紹介した西沢保雄さんの写真を再びお借りしました。五里ケ峯からの撮影ですが、ちょうど「月の都」を包む空間です。月夜の感じを出すためモノクロに変換しました。手前を国道18号(旧北国街道)が走ります。これまでのシリーズで紹介してきた「月の都」を構成するスポットの写真を中心に載せてみました。上右からシリーズ108、武水別神社の本殿、76、92、80です。
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