シリーズ130号で今から77年前の昭和11(1936)年中秋、姨捨棚田(長野県千曲市、旧更級郡八幡村)の一画をまだ稲穂が実る前に青田刈りして水を張り、水面に映る月を楽しむ一大イベントがあったことを紹介しました。このイベントを企画した地元姨捨区の畔上悟友(あぜがみ・ごゆう)さん(本名政信)はすでに亡くなっているのですが、義理の娘さんの文子さんが当時の様子を義母の潔己(きよみ)さん(故人)から伝え聞いていらっしゃることが分かりました。
大鏡を使った「田毎の月」実見プロジェクト(10月18,19日)を主催する栞の故郷推進委員会会長の馬場條さんから取材を勧められました。馬場さんはプロジェクト当日、稲刈りの終わった田に水を張って月を見てもらう趣向も計画しており、〝元祖〟「田毎の月」プロジェクトを調べているうちにり、畔上文子さんと知り合ったのだそうです。
馬場さんは畔上さんから当時の様子が信濃毎日新聞記事になっていると聞いて県立図書館を訪ね、データーベースからそのコピーを手に入れました。昭和11年の中秋は9月30日ですが、新聞は前日からイベントの告知記事を掲載し、本番当日夕刻に鏡台山から現れた月と青田刈りをした田の水面に映る月の写真を翌々日の紙面に載せていました。3枚組の左の写真がそれで、「皎々、三千両の名月」の見出しと、「三十日の夜の姨捨山観月の夕は田毎の月を愛でようという月見客がつめかけ、全山素晴らしい賑わいを呈したが、三千円を投じ稲を刈取らした例の霞遊宗匠(かゆう・そうしょう)も清澄な月光下に雅宴を開いて名月をたたへ大盛況であった」という説明が添えられています。翌々日の掲載になったのは、夜の撮影なので翌日の新聞には間に合わなかったためですが、それでも翌日の紙面には盛大にイベントが行われたことを文章だけで紹介しています。それだけの報道に値する魅力がさらしな姨捨の月にはあった証拠です。
写真説明を少し補足します。「例の霞遊宗匠」とは、松尾芭蕉のお墓がある滋賀県大津市の義仲寺住職で俳人の本名小野安太郎さんのことです。昭和11年は芭蕉が「更級紀行」の旅で当地を訪ねてからちょうど二百五十年の節目だったので、小野さんから中秋に田毎の月を実際に見てみようと持ち掛けられたのがこの一大イベントの始まりでした。小野さんも前日から当地に来訪し、月見を楽しみました。3枚組中央の下に信濃毎日新聞の取材に答える小野さんの写真があります。見出しの「三千両」とは、水を張るために小野さんが購入した田んぼの値段とみられます。説明文には「三千円」とありますが、より読者の目を引きやすいよう江戸時代の通貨単位をあえて使ったのだと思います。現在の価格にしてどのぐらいでしょうか。
畔上文子さんのお宅も訪ねました。芭蕉が立ち寄った長楽寺の少し上方、鏡台山と千曲川の流れも望める大変眺めのいい場所。畔上さんは長野県北部、野沢温泉の生まれで、俳句が好きでここに移り住んだそうです。自身も俳句の師匠として地元にたくさんの門人を抱え、昭和11年のイベント当日は、そばを手打ちする職人を何人も自宅に呼んでそばを作り月見客向けに販売し、田に映る月を見るためのやに組んだやぐらでは野沢温泉から取り寄せたヤマメを焼いてふるまったそうです。畔上さんのお宅には元姨捨区長の宮坂武夫さんも同席されました。青田刈りについて「当時は二毛作だったので田植えは6月下旬で稲刈りは10月半ば以降。9月30日はまだ十分には実っていなかったはず。ただ、その分、田の土には湿り気があったので、水は張りやすかったと思う」とおっしゃっていました。
お話をうかがった後、イベントの現場に案内してもらいました。武水別神社から長楽寺に向かう道沿いにイベントを記念する大きな石碑をはじめ句碑が並んでいる場所があるのですが、そこがやぐらの舞台で、更級川沿い東側の田んぼが青田刈りをして水を張ったところだそうです。
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