「更級郡村数の歌」。千曲市羽尾地区(旧更級村)の松本与喜のさんが節をつけて唱えていました。昭和の初め、更級郡に属していた2町26村の名前を盛り込んだ歌のタイトルです。与喜のさんは2002年、91歳で亡くなりましたが、近くにお住まいの野本洋子さんがテープに録音していらっしゃいました。
学習発表会で
この歌のルーツをたどっていくうちに貴重な資料を見つけました。長野市信更町(旧更級郡信田村と更府村)の内山憲太郎さんの著書「三万日のあしあと」(1986年発行)に記されていました。小学校の教師だった内山さんが昭和2年(1927)にこの歌をつくり、信田小4年生の子どもたちに覚えさせ、学習発表会で親御さんたちに披露したのが最初です。歌詞を下に掲載しました。これを「戦友」(ここは御国を何百里はなれて…)や「鉄道唱歌」(汽笛一声新橋を…)の曲に乗せて歌ったということでした。
昨今の市町村合併論議で「郡はいらない」とまではいかなくとも、大規模自治体化することで消滅の瀬戸際にある郡が全国各地にあるようです。それなのにこの歌は郡を大事にしています。歌にまでするのはなぜだったのでしょうか。
郡は今では町村の名前を束ねる地名として地図に載っているくらい。新聞では住所表記をする際に郡名は書きません。調べました。鎖国を解いて江戸時代が終わり、欧州や米国に引けをとらない国家になるための統治のしかけだったことが分かりました。
歴史的な単位
郡は7世紀中ごろ、中国の政治の仕組みを取り入れ、中央集権国家の行政区画のひとつの単位として規定されました。更級郡は信濃国の10郡の一つでした。武士が政治の実権をにぎる鎌倉時代となると、郡は事実上、崩壊し、一つのまとまった地域の呼び名となりました。江戸時代の文書では「信濃国更級郡○○村」などの表記がありますが、実際は藩に属していました。
これを明治政府が復活させたのです。それまでの郡の区画としては広すぎるものには東西や南北、上下の言葉をつけて分割しました。長野県では筑摩は東西、佐久と安曇は南北、伊那、高井、水内は上下に分け、更級、埴科、小県、諏訪はそのままの名称で計16郡としたのです。そしてそれぞれの郡に役所が置かれました。
明治維新とは言っても、村々はまだ今で言うような自治体の機能がありません。それを廃藩置県でできた県がまとめるには、数が多すぎて目配りが聞かない。実際、言うことを聞きそうにない…それが県と村々の間に郡を置いた大きな理由だと私は思います。千年以上にわたり人口に膾炙してきた郡という地域で「まとまれ」と言われれば「それもそうかな」という気持ちになるでしょう。実際、郡会議員は村々の議員から選ばれていました。郡議員はそれによって村民を郡の考えの方向でまとめる責任を負ったわけです。
薄まる郡意識
更級郡役所は塩崎村篠ノ井(現長野市上篠ノ井)に置かれました。欣浄寺です。この一帯は江戸から善光寺に向かう北国街道と、木曽方面から善光寺に至る北国西街道(善光寺街道)が交わる地点ですので、明治の初期までは郡内で一番の人の往来があったところです。篠ノ井追分という地点です。
それが1923年(大正2)、現在のJR篠ノ井駅近くに移ります。東京と日本海をつなぐ信越線が敷設されたのが契機です。篠ノ井駅を抱えていた布施村が、政治的・経済的な力を持つようになったからです。内山さんの「村数の歌」の「篠ノ井」とは、布施村とその周辺の村々の合併でできた新しい町の名前です。しかし、それが皮肉にも更級郡意識を薄めさせていくことにもなります。明治政府の強力な中央集権化に伴い、県庁の所在する長野市に吸いつけられるように合併していき、篠ノ井は長野市の大字の一つになりました。
反面、その過程で郡内の村々は自治体としての力を持ち、郡役所は1926年(大正15)、廃止されます。しかし、昭和30年前後の「昭和の大合併」で、更級郡の村は大岡村と上山田町だけになり、その上山田町も昨年九月に更埴市と戸倉町と合併し、大岡村だけになっていました。
娘時代に覚えた?
明治から大正にかけての更級郡長だった津崎尚武は県内で最初に郡の広報啓発機関誌「更級時報」を発刊し、村の領域を越えた郡民、国民としての自覚を持ってほしいと発刊の理由を記しています。当時、為政者の間では日本は欧米列強の植民地になりかねないという恐怖が一層大きくなっており、日本人は井の中にとどまらず、大海を知ることが生きのびるのにも必要だという気持ちが強かったのだと思います。
繰り返しになりますが、内山さんがこの歌を作ったのは昭和2年(1927)。著書の中で「障子二本の大きさの更級郡白地図の上に、それぞれの村の形に切り抜いた色紙を一人一枚(一村)ずつ、村数の歌に合わせてはりつけて地図を作った」と書いています。このときすでに郡役所は廃止されていましたが、子どもたちに自分の村にとどまらない広い視野と地域の歴史的な一帯感を持たせるための教材にしたのではないでしょうか。
歌の存在を教えてくれた松本与喜のさんも、旧信田村の灰原地区の生まれ。内山さんがこの歌を作ったのは1927年で、当時24歳。このとき与喜のさんは16歳なので教え子ではないでしょう。しかし「学習発表会で披露した4年生も今や80歳前後。この年配の諸君の口には、いまだにこの歌が残っている」と内山さんが記していることからすると、娘時代の与喜のさんが、子どもたちが村のあちこちで楽しそうに歌っているのを聞いていて覚えてしまったのかもしれません。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。