「さらしな」という言葉がなぜ歌枕になったのか。どうして京の都人にとって特別にロマンチックな言葉になったのか。「〇〇しな」と呼ばれる地は信濃にはほかにもたくさんあるのにです。
名月は水とともに
奈良、平安の古代、さらしなと呼ばれた地域には、ほかの地にはない景観と自然、そして人材がありました。月と千曲川(水)、冠着山、そして奈良時代に実在したとされる建部大垣です。建部大垣は親孝行者と朝廷から誉められ、税を免除された更級郡在住の人です。これら四つがインドから伝わった仏教の姨捨説話と融合、冠着山に姨捨山の異名を与え、さらしなを姨捨山説話のメッカにさせたと考えられます。
メッカにした大きな条件は千曲川であることも強調したいと思います。古来、月の名所になった地は、大半が水とセットになっています。観月のスポットとしても知られる兵庫県須磨は瀬戸内海に面し、宮城県松島は湾という水に囲まれた所です。日本の庭園文化の発祥とされる大覚寺の大沢池など、京都の寺社に設けられた多くの池は月をより楽しむための仕掛けで、名月観賞池という分類があるほどです。水は月の光を反射させ、大きな空間を演出する装置だったのです。
さらしなの場合、先の四つの条件のうち、どれか一つ欠けていたら、姨捨山説話のメッカにはならなかった可能性があります。土台にあるのは「さらしな」だと思います。さらしなが月、千曲川、冠着山、建部大垣、姨捨説話を下支えしており、「更級」ということばの底力を感じます。
野ざらし紀行と更科
なぜ、そんなに力があるのか。音の響きが大きく関係していると思います。アルファベットで書くとsarashinaです。さらしなは「さらす」を思い起こさせます。漂白剤を意味するさらし粉、サラサラという言葉があるように純白、清澄さをイメージさせます。布を水にさらすと清冽に仕上がります。
一方で、さらすは「白骨」「しゃれこうべ(髑髏)」」も思い起こさせます。古代学の開拓者である西郷信綱さんの「古代人と死」(平凡社ライブラリー)という著作の中の論考が気づかせてくれました。西郷さんの卓見は俳人、松尾芭蕉の紀行文の一つ「野ざらし紀行」も、白骨をイメージした命名だと指摘したことです。
この紀行は1684年、芭蕉が俳諧で身を立てようと生地の三重県伊賀上野から江戸に出てから初めて遠方に足を運んだ儀吟行の旅です。「野ざらしを心に風のしむ身かな」という冒頭の句が示すように、俳諧という芸術を完成させるためには、死んで肉が腐ってしゃれこうべなってもがんばるという性格の旅でした。それで、「野ざらし紀行」というタイトルを付けたのです。
芭蕉は「野ざらし紀行」の旅から四年後に「更科」に旅をし、更科紀行を著します。そのとき、「さらしな」と言えば、わたしの旅の始まりのころには「野ざらし」の句を詠んだことがあったな、と振り返っていたかもしれません。
また、日本では古来、白は神聖で高貴な色とされてきました。「さらしなそば」が江戸時代、「御前そば」とも呼ばれたのは、神聖でありながら質素、清楚を重んじた儒教精神が江戸社会に広まっていたせいもあると思います。
「さらしな」は神聖で高貴でありながら白骨という恐怖をも想起させる響きを持った言葉であったのです。だとすると、姨捨山説話のメッカに選ばれた理由も分かってきます。
永遠の命に
日本で最初に更級の姨捨山を舞台にした姨捨説話が登場したのは10世紀半ばの平安時代中期に成立した「大和物語」で、さらに平安末期の「今昔物語集」にも盛り込まれました。この中には、現在広まっているような知恵のある老人と親孝行者の息子という関係は記されていません。一緒に住んでいた老女を妻が嫌って「捨てろ」と、どうしても言うので、月が明るい中秋の十五夜、夫は山に捨てに行ったけれど、捨て切れずに帰ってきたということが描かれています。
この物語に高貴で神聖なものと和歌や物語が大好きな都の人たちが心を動かされたと思われます。中学、高校生のころ、平安時代の貴族階級の美意識は「もののあわれ」だと教わったことがありませんか。「もののあわれ」とは一言で言うのは難しいのですが、無常、孤独、悲哀といった感情を同時に持つような感覚だと思います。姨捨説話を読んだ平安貴族は、もし、老女が本当に捨てられていたら、岩陰で白骨死体になっていたかもしれない、どんなにさみしくて哀しかっただろう…などと「もののあはれ」の感情を呼び起こされてもおかしくはありません。特に貴族女性は自分の老後と重ね合わせることがあったようです。その一人がこのシリーズでたびたび登場している「更級日記」作者の菅原孝標女です。
現代の姨捨説話は、作家の深沢七郎さんが書いた「楢山節考」によって、親子関係の真実、永遠の命といったテーマに深まりました。「人間社会を存続させて生き延びるためには殺さなければならない」という究極の不条理を扱っています。捨てられた親は「自分は死んでも子孫はつながる」と安心しますが、子は後悔します。しかし、それによって親は子孫の心の中で生き続けます。このように矛盾した状況を前にすると、人間は美を感じます。子孫を残すためには親を捨てなければならないという姨捨山説話は、矛盾のドラマの代表格です。このことが木下恵介、今村昌平両監督をして映画化に打ち込ませた理由だと思います(「楢山節考」について詳しくはシリーズ22をご覧ください)。
姨捨山と呼ばれた山は全国各地にありました。その中で結局、「さらしなの姨捨山」が現代にまで人口に膾炙し、高齢社会になって再び注目されているのは、繰り返しになりますが、神聖で高貴でしゃれこうべの死者をも想起させる「さらしな」という言葉の響きと、姨捨説話が親子関係と人間社会の冷徹な真実のドラマに深まったことに大きな理由があったのです。
裏付ける和歌
では、実際、どれだけsarashinaがイメージの喚起力を持っていたのか、古人の和歌で探ってみます。
さらしなは心の中の里なれば月見るごとに身をやどすかな (藤原信実)
私にとって更級は心の中にあるかけがえのない里。夜空に浮かぶ月をみるたびにそこ住んでいるような気持ちになる、という意味です。更級の地を訪れたことはなくても心の中では理想郷として存在していたことを歌っています。作者の藤原信実は鎌倉時代の有力な歌人で、天皇家での歌合せでこれを詠み、「弘長百首」に収載されています。
次はこれより早い平安中期、歌枕の原型を示した能因法師の歌です。
さらしなや姨捨山に旅寝してこよひのつきを昔見しかな
能因法師は実際に更級にも来たことがあるようです。今、夜空には月が懸かっているが、これを見ていると昔、更級で見た月の美しさが懐かしく思い出されると感慨にふけっています。
鎌倉時代初期の順徳天皇には「さらしなや夜わたる月の里人も慰めかねて衣打つなり」という歌があります。ずっと、なぜ「衣打つ」という情景が詠まれたのか不思議だったのですが、都に税として納める布を作る場として更級が美しくイメージされていた証拠とも考えられます。この歌は白を基調にしたものなのです。
能因法師の歌も順徳天皇の歌もそうですが、当地を世に知らしめた古今和歌集の「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」も含め、「さらしな」は「や」という俳句で言う切れ字を伴い、歌全体を彩る言葉として使われていました。「さらしな」が当地の景観など冒頭で触れた四つの条件を包み込む役割を担っていたことの証拠です。
江戸末期、佐良志奈神社の宮司、豊城直友さんが京都の歌人に作ってもらい社標に刻んだ次の歌も、さらしなの白のイメージを強烈に示しています。
月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里 (柳原大夫人)
写真は、JR姨捨駅の構内に掲げられていた更級や姨捨の和歌を絵ととともに盛り込んでいた額です。幅は人の背丈ほどあったでしょうか。分割して撮影、組み合わせました。残念ながら、現在は見当たりません。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。