53号・「更級」に生涯を捧げた初代村長

 更級村初代村長の塚田小右衛門(雅丈)さんは、なぜ生涯を「更級」に捧げたのか。それだけ価値のある言葉であったことは、これまでのシリーズで明らかだと思うのですが、そんな疑問がずっとありました。そのなぞに迫るヒントとなる文献がありました。千曲市羽尾地区(旧更級村)郷土史研究家の塚田哲男さんからお借りしたものです。

 相次ぐ身内の不幸
 小右衛門さんが自身が書き残した「略歴及略伝公私用実行録」です。タイトルも自分でつけたもので、冒頭に主に公職に関する自分の略歴を箇条書きに記しています。末尾に「大正五年」と書き、自分の印を押していることから、小右衛門さんが68歳のときにまとめたものです。
 略歴に続いては日記風に自分のやってきたことを綴っています。それらを読むと、小右衛門さんは更級村の初代村長となる前の20代までに本当に苦労したようです。7歳で母親と死別し、祖母の手で育てられました。13歳で父親が死去し、14歳のときは頼みにしていた兄小ニ郎さんが病死しました。
 25歳で羽尾村の名主に就任します。名主とは村の責任者です。自治体の機能を持つ前の村ですが、今で言えば区長さんの仕事にさらに行政がらみの仕事も勤めるという責任が重く多忙な立場です。
 村用として神社や寺の敷地などを調べる仕事が舞い込むのですが、更級郡内の近辺を歩きます。その際、大雨に見舞われ、千曲川の洪水の中にもかかわらず、船で川を渡ることもありました。小右衛門さんは「その当時はさほどとも思わざりしが、60(歳) 以上の今日、右様の始末なれば、果たして一命にかかわるものと想像せられたる」と記し、当時はそれが当然だったので別に苦労とは思わなかったと回顧しています。
 明治7年(1874)、三歳の三男と四歳の長女を天然痘などの病気で亡くしました。小右衛門さんが27歳のときです。そのときの思いについて「嗚呼子を持つ親やられし。文明の今日ならば医師治療を以て必ず生存し社会何業成居ならん」と悔やんでいます。我が子を失うつらさは今も昔も同じです。

 天然痘の恐怖
 このような観点で読み解こうと思ったのは、「略伝」の冒頭にある次の記述を見てからです。小右衛門さんは4歳のとき、天然痘にかかりました。そのときに治ったことを「九死に一生を得る」とした上で、「以後、我人間社会の不界ものとなれり」と記しているのです。不界者というのはすごい言葉です。人間でも妖怪でもない、どちらにも属しない。中途半端な状態ですが、小右衛門さんには一度死んだも同然なのだから、「死んだ気になって…」という思いがあったと思われます。
 当時、天然痘は大変な病気でした。高熱で始まり、発疹が現れ、発疹は口の中、のど、顔、手足の皮膚など、ときには全身に及びます。発疹はうみ、かさぶたになるのですが、この間に衰弱し、死亡率も高く、治っても発疹の後が残ります。人類を大昔から苦しめてきた病気なのですが、1977年、世界保健機関(WHO)は天然痘の絶滅を宣言しました。患者を見つけたら、周辺の人たちにもれなくワクチンを接種するという対策の成果でした。
 しかし、小右衛門さんがかかった当時は、日本でワクチンがようやく広まり始めたころだったので、ワクチンはまだ容易には使えなかったと思われます。三男の直二郎君が亡くなってしまったように一度掛かれば死を覚悟しなければいけない病気でした。
 今、新型インフルエンザという新しいタイプのインフルエンザの発生が恐れられてていますが、このインフルエンザにはワクチンがないので、日本でも最大64万人が死亡すると予測されています。小右衛門さんの時代は、まさしくこのワクチンがない時代でしたので、天然痘に対する恐怖はこれに匹敵するものだったと思われます。

 先見の明
 死んだ気になればなんでもできる、何も怖くない、とよく言われます。小右衛門さんが私財も投じながらその気持ちをぶつけたのが、更級村の宣伝と地域振興だったと考えられます。
 明治11年(1878)、小右衛門さんが30歳のときには古峠付近に隧道をうがつプロジェクトに取り掛かります。南側の坂井村にの直結するトンネルをあけることによって暮らしを豊かにする狙いがありました。トラブルがあり、この計画自体は頓挫しましたが、後年の明治32年(1899)には、北信と中南信を鉄道でつなぐ大動脈、国鉄中央線の冠着トンネルとして実現しました。小右衛門さんには先見の明がありました。
 現在の国学院大学の前身となる教育機関の先生だった佐藤寛に依頼して「姨捨山考」を出版しました。1000部を印刷し、全国に配布しました。「古来、姨捨山とされてきたのは冠着山のことである」ことを証明する本でした。掛かった費用数百円を自費でまかないました。
 シリーズ52号で紹介したように、旧更級村羽尾地区の郷嶺山の山頂には観月殿を建設しました。「略歴及略伝公私用実行録」には、小右衛門さんが成した仕事がほかにもいくつも記されています。

 大往生
 小右衛門さんの人柄をうかがわせるエピソードもありました。  冠着トンネルの開通を記念して郷嶺山に碑を建てることになりました。そのとき碑文に小右衛門さんの功績に触れる部分があったのですが、小右衛門さんはそれを辞退しました。そうこうしているうちにうまむやになりかったとき、この際、「姨捨山の碑」を建立しようということになりました。
 雅丈さんが周りの人たちの気持ちを受けれてできあがったものが今も郷嶺山に残っています。「姨捨山之碑」とありますが、内容は小右衛門さんの功績を要約したいわば謝恩碑です。大正6年の建立です。
 小右衛門さんはこの6年後の大正11年(1922)に亡くなります。そのときの様子をお孫さんにあたる塚田浅江さん(2000年、90歳で逝去)が語っています。竹内長生さんがお書きになった「とぐら郷土の人物伝」の中で紹介されているもので、小右衛門さんはお昼を食べた後、奥さん(浅江さんにとっては祖母)にシーツのしわまで伸ばしてもらった布団に仰向けになり、大あくびをして大往生をとげたそうです。浅江さんは「病みもせず苦しみもせず閉じた生涯。自分の理想のままに生き最高ではなかったと信じている」と言っています。次に掲げるのは小右衛門さんの辞世の歌です。

  いにしへの文みてぞ知る姨捨はそそり立たせる更級の山

   小右衛門さんについてさらに詳しくはシリーズ13、14、30.51、52などをご覧ください。

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