160号・「さらしな」にそろっていた月の都の舞台装置

 質問 「さらしなの里」は歴史的に「月の都」と呼ばれていたそうですが、月の都とはどういうもので、なぜそう呼ばれるようになったのですか?

 答え 「芸術の都、パリ」「水の都、ベネチア」など、 「○の都」という言葉は、○が最も美しい場所という意味で使われます。「○の名所」はスポットというニュアンスが強いのに対し、立体的な広い空間を感じさせます。「名所の中の名所」という最上級の意味も感じます。
 月の名所は全国各地にたくさんありますが、「月の都」と自他ともに認める場所は、そんなにないでしょう。そうした希少性の高い地域と「さらしなの里」はみられてきました。
 さらしなの里の場合は、月を美しく見せる舞台装置がそろっていたのとが理由です。舞台装置とはほかの地域はない景観をはじめ、自然、人材、情報の道のことです。具体的には月と冠着山、千曲川、奈良時代の建部大垣、さらに東山道の支道です。
 舞台装置としてまず強調したいのは冠着山の姿です。千曲川の堤防付近から見ると、左右に少し背の低い山並みを従え、前面には扇状地が広がっています。山の頂上近くには赤ちゃんを親が抱いたように見える児抱岩がアクセントになってその姿が独特になり、神々しさを覚えます。
 次に強調したいのは千曲川です。古来、月の名所になったところは、ほとんど水とセットになっています。観月のスポットとしても知られる兵庫県・須磨は瀬戸内海に面し、宮城県・松島は湾という海に面しています。日本の庭園文化のはじまりとされる京都市の大覚寺・大沢池など、京都の寺社に設けられた多くの池は月を楽しむためのしかけでした。水は月の光を反射させ、闇と光がおりなす大空間を演出する装置だったのです。
 千曲川はさらしなの里を貫いて流れる大河です。水に襲われそうな場所には住まなかった昔、大雨が降ればさらしな平地は水びたしになり、そこに夜月が上がれば、それは光に満ちた空間になっていたでしょう。さらしなという言葉がイメージさせる白色のイメージにぴったりです。
 さらに建部大垣という奈良時代にさらしなの里に住んでいた人の存在です。建部大垣は天皇(政府=朝廷)から「親孝行者」とほめられ、税金を免除されました。「続日本紀」という奈良時代の歴史書に載る事実で、親孝行という倫理は高潔という白色のイメージと重なり、「さらしな」という言葉の響きに合います。
 さらしなの里を月の都にしたもう一つの重要な舞台装置は東山道の支道です。東山道とは朝廷が東日本を支配するために通していた国道で、分かれた道の一本が冠着山の西側の峠を越え善光寺平を通っていました。この道を歩く役人ら都人たちが、さらしなの里にあらわれる月の美しさを、みやげ話として持ち帰っていたと考えられます。
 千曲市の観光キャッチフレーズが「芭蕉も愛する月の都」(漫画家・絵本作家のすずき大和さん制作.上のロゴマーク)であるのは、こうした歴史を踏まえているからです。

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