シリーズ初回で菅原孝標の娘がつづった「更級日記」を書き写したのが藤原定家と紹介しました。この人は新古今和歌集の編者の一人であり、のちの歌人から最も尊敬される歌人の一人です。「小倉百人一首」の選者でもあります。1162年に生まれ1241年、80歳で死去、平安時代末期から鎌倉時代を生きました。
名所絵の一つに
今私たちが読める「更級日記」も定家が書き写していてくれたから、読むことができます。それくらい大事な人なのですが、「藤原定家」(村山修一著、吉川弘文館)など定家を研究した本を読むうちに、定家にとって「更級」は一つ特別な意味をもっていたのではないかと思うようになりました。
定家が「さらしな」にこだわった一つの証拠が京都にあった最勝四天王院の障子画です。定家は朝廷から最勝四天王院に描く名所の選定を任され、そのうちの一つに「更科の里」を選んだのです。
前40号で触れましたように、障子画は歌と絵をセットにするのが一般的で、歌については定家の姪にあたる「藤原俊成女」の歌を選びました。彼女は当時の有力な歌人の一人でした。歌は<里の名の秋にわすれぬ月影に人やはつらきさらしなの山>。意味は、さらしなという里の名前を聞くと、どうしても月が照って心を慰めがたい秋の夜の姨捨山のことが思い起こされる―ということでしょうか。
定家は現地を調査させるこだわりをもって名所選定にあたったということです。ただ、当地にも調査が実際に及んだかどうかわ分かりません。定家が46歳のころの大仕事です。ただ、残念ながら、最勝四天王院は定家が存命中に壊されてしまいました。障子画を見ることはできません。
「信濃守」は名誉?
定家の思い入れをうかがわせる二つ目が、66歳のころに、信濃国司となったことです。国司というのは今で言えば都道府県知事のような行政長官のことですが、この時代は現地に赴任せずに都にいながら「遥任」という形で職を担う公家がたくさんおり、定家もその一人だったと思われます。
当時の公家は全国各地に荘園を抱え、そこでの税金からいくらかを取って生活費にしていました。歌人で有名な定家ですが、だからといって歌を作って食べていたわけではなく、あくまで稼ぎは別で、歌は貴族社会での存在意義を示す手段でもありました。
そしてこの信濃国司の仕事も朝廷側から依頼されました。当時は地方がなかなか朝廷の意向にしたがってくれない時代で、信濃国もその一つで、どうも手を焼いていたようです。それでもあえて定家が引き受けたところに「さらしな」への強い関心を感じるのです。
定家が残した日記で国宝となった「明月記」には「名字国務の名に懸る」を以って引き受けることにした、という記述があるそうです。これは「信濃守」という肩書きを持つことが、何よりも名誉だったということではないでしょうか。
明月記によると、定家は信濃国に使者を派遣しています。彼は使者かからいろいろな報告を受けたと思うのですが、明月記には「使者、信濃より京都に帰り国情を報ず」としたうえで、「更科の里」の場所について「更級の里姑棄山に対す。里の南西に在り」と、わざわざ記しているのです。
7歳のとき清涼殿に
定家が「さらしな」について詠んだ和歌も列挙します。
<きりはれて行末てらす月影をよもさらしなと何思ひけん>
<更級は昔の月の光かはただ秋風ぞをばすての山>
<慰まずいずれの山も住みなれし宿をばすての月のたひねば>
<たずねみよよし更級の月ならば慰めかぬる心しるやと>
これらは定家が55歳のとき、自分の作った歌を集めて編んだ歌集「拾遺愚草」に盛り込まれているものです。古今和歌集にある<わが心慰めかねつ更級やをばすて山に照る月を見て>を背景にしてつくったことがううかがえます(この歌についてはシリーズ31号参照)。
では、なぜ、定家がそれほど更級に心引かれたのか。彼は7歳のとき、清涼殿に父親である俊成と上ったそうです。清涼殿とは40号で触れた京都御所の天皇の住まいのことです。確認はできていませんが、清涼殿には「更科の里」の襖絵があった可能性もあり、定家がその襖絵を見せてもらい、強い印象に残っていたとも考えられます。
更級日記は定家の命名?
さて、もう一度、定家の更級日記の書写についてです。書き写したのは70歳ごろです。もともと病気がちな体質で、源氏物語をはじめとする古典を書写することが彼の心を慰めたという説があります。彼はどんな気持ちで更級日記を書き写したのでしょうか。菅原孝標の娘という一人の女性の生涯に、自分の来し方を重ねたかもしれません。優美な彼の歌には女性的な感性が感じられるので、男性でありながら女性の気持ちにも理解が及ぶ人だったかもしれません。
もともと更級日記は源氏物語のように広く読まれたものではなく、菅原家に保存されていたものを定家が借りて書き写した―と書いている研究者がいます。根拠がよく分からないので真偽はわかりません。ただ、もし、それが事実なら、「更級日記」というタイトルの命名者が孝標の娘本人なのかどうか確定的ではないとされているので、定家が書写の際に原本にはなかったタイトルを書き付けたとも考えられます。
左の写真は、江戸時代の画家尾形光琳がつくった百人一首「光琳かるた」に描かれた藤原定家の肖像です。歌は<来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに焼くや藻塩の身もこがれつつ>。平凡社の「太陽」210号「藤原定家と百人一首」から複写しました。右の写真は定家の墓です。京都市上京区の相国寺にあります。
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