27号・望月と田毎が仕えた「更科姫」

 歌舞伎で演じられるお姫様の中に、「更科姫」があります。演目は「紅葉狩(もみじがり)」です。戸隠(現長野市)の鬼女伝説と能舞台の「紅葉狩」をアレンジしたものです。ただ、それらには、いずれも主役の女性が登場するのですが、「更科姫」ではありません。歌舞伎の演目になって初めて「更科姫」という名前が与えられました。
 酒席と舞踊
 戸隠の鬼女伝説にでてくる女性の名前は「紅葉(もみじ)」です。平安時代、紅葉は都に上がり、その若さと美しさがすぐに評判となり、源氏の有力者の側室となります。妖術を使う紅葉は正室になろうと画策するのですが、それを見抜かれ、戸隠に流されました。
   村人たちの病気を癒してやったことから紅葉は村人たちからあがめられ、一方で、鬼まがいの振る舞いで北信濃一帯に一大勢力圏をつくります。このため朝廷は平維茂(たいらのこれもち)に紅葉の討伐を命じます。戦いの最後は、戸隠全山が緋色の衣におおわれたような美しい紅葉を背景に、紅葉と維茂の一騎打ちとなり、紅葉はついに維茂の剣の前に倒れます。
 能の物語は、今から約五百年前、室町時代の能役者であり能作者でもあった観世小次郎信光が作りました。鬼女伝説の前半部分は省略され、討伐にきた維茂の酒席で舞踊を披露する紅葉のシーンが中心です、紅葉は維茂が酔って宴が盛り上がったときに、鬼と化し、戦いが始まります。
 九代目団十郎も関与
 「紅葉」に「更科姫」と新たに名前与えたのが、江戸幕末から明治にかけて活躍した歌舞伎脚本家の河竹黙阿弥(かわたけもくあみ)です。黙阿弥は約三百六十編の物語を送り出し、シェークスピア劇の翻訳で知られる坪内逍遥からは「江戸演劇の大問屋なり」と称賛されています。
  黙阿弥が歌舞伎の「紅葉狩」の脚本を作るにあたって鬼女の名前を「更科姫」と名づけた理由について、文献をいくつか当たりましたが、直接的な記述は見つかりません。推測するに、舞台で演ずる「紅葉」の名前を、信濃の国の地名から一つ探し出そうという意識が働いたのは間違いないでしょう。
 もともとは明治の文明開化期に歌舞伎の近代化に貢献した歌舞伎役者九代目市川団十郎の発案で、黙阿弥が能舞台からアレンジしたという趣旨の記述も見つけました。とすると、九代目団十郎と議論や相談の上でということも考えられます。「鬼女の性格と美しさと艶やかさと怪しさ。これを一つの名前で表現するには何がふわさしいか」などとです。
 江戸では更科そばが繁盛し、更科は月のメッカ、さらしなと言えば姨捨で、身を犠牲にする悲劇もイメージしやすい…。黙阿弥の中では、歌舞伎という極彩色の衣装と舞台で演じられる物語は「更科姫」という名前を思いついたときに、できあがったと言ってもいいかもしれません。
 戦国時代の「更科」
  もう一つ、命名の背景にあると思われるのが、「絵本更科草紙」です。これは版画の入った物語本で、栗杖亭鬼卵(りつじょうていきらん)という人が江戸時代文化年間の一八一〇年代に作りました。戦国時代の信濃国の支配権をめぐって繰り広げられた村上義清と甲斐の武田信玄の戦いをモチーフにしたもので、村上氏側の女性の武勇伝などが描かれています。その女性の名が「更科」です。
 この物語は歌舞伎にも仕立てられたようです。左の写真は絵本更科草紙が出版された後の天保三年(一八三二)に京都で演じられた歌舞伎の演目と役者の名前の一枚刷りです。演目の一つに「絵本更科話」と記されています。山形県でも明治の初めに絵本更科草紙が演じられたとの記録が残っていることから、江戸幕末にかけては各地で演じられていたものとみられます。黙阿弥と九代目団十郎も当然、その演目と「更科」という女性の役柄は知っていたでしょう。
 できあがった歌舞伎の「紅葉狩」の脚本に興味深いことがあります。更科姫には「望月(もちづき)」と「田毎(たごと)」という名の侍女が付き添っているのです。この二人が更科姫と維茂の間を取り持ちます。
 酒盛りをする維茂の前で舞踊を披露する更科姫に伴奏する唄には「木曾山越えて更科の、田毎にうつる月影に、心も晴れて曇りなき、御代の鏡の鏡台山」という文句がでてきます。これは現在の姨捨地区一帯の景観を踏まえたものと言っていいでしょう。松尾芭蕉の「更科紀行」もほうふつとさせます。この構成からしても、当時は「更科」という言葉が信濃を代表するものであったことがうかがえます。
 映画にもなる
 歌舞伎の「紅葉狩」の浮世絵を見つけました(写真左)。人気の歌舞伎役者を描いていますから、今で言えばブロマイド写真のようなものです。明治二十八年(一八九五)、東京・日本橋の福田熊治郎氏が印刷発行したものです。左が更科姫で、桜の花模様の縫い取りをした緋色の振袖、さらに花櫛のついた鬘(かつら)など、歌舞伎に登場するお姫様の特徴をそろえています。
 そうした衣装による艶やかさと役者が醸し出す気品が、一転して鬼女の凄みに変わるというところが観客に大当たりします。初演は明治二十年(一八七七)、東京の新富座(関東大震災で焼失、再建されず)です。市川家の七代目団十郎が代々の当たり芸の中から十八種類の古劇を選んで名づけた「歌舞伎十八番」とは別に、九代目団十郎は「新歌舞伎十八番」を選ぶのですが、「紅葉狩」をその中に加えました。得意芸のことを言う「十八番」というのはそこから来ているのだそうです。
 もう一つ興味深いのは、現存する日本最古の映画が「紅葉狩」だということです。明治三十二年(一八九九)、再演の舞台をそのままフィルムで撮ったという原始的なものです。テレビのない時代、それは活動写真として世の人を楽しませたようです。更科姫は五代目尾上菊五郎、九代目市川団十郎が維茂を演じています。
 歌舞伎の紅葉狩は今もしばしば演じられ、更科姫は観客を魅了しています。 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。