今と違ってたくさんの子が生まれた明治から昭和の戦後まで、多くの人たちが仕事を求め、結婚し、あるいはやむえぬ事情で故郷を離れて全国に散らばりました。公民館報「さらしな」の1954年(昭和29)4月10日号には、旧更級村出身者の行き先と人数が記されています。最多は東京691人で、続いて愛知県81人、神奈川県78人、埼玉県57人、静岡県46人となっています。
成功した経営者
この中で、組織的な集まりになっていたのが「東京更級会」です。東京更級会はふるさとに大きな支援をしました。館報には東京更級会についての記事が散見されます。それによると、終戦後の1949年、芝原地区(旧更級村)出身の近藤保房さんを会長に発足しました。事務所は東郷神社(東京・青山)です。メンバーの中心は上京後、成功した経営者と思われます。主に寄付行為を通じての貢献がメーンだったようです。館報には北村敬三さん、ほかに中村安治郎さん、中村長次郎さんらのお名前が登場しています。
東京更級会が年に一度行う総会には更級村村長も出席していました。税収も少なく使える予算が足りない戦後は特に故郷復興への大事な役割を期待していたものと思われます。1950年1月5日号には、当時の水井壽穂村長と豊城達夫村会議長、そして高松PTA会長(下のお名前が分かりません)の三人が総会に出席し、更級小学校舎の建設総工費400万円のうち50万円の資金を東京更級会の寄付金でまかなうめどがつき、建設が進展したと記されています。
孝子観音の建立
在京の更級村出身者の組織的な支援として館報で大きく紹介されているのが、千曲市羽尾地区(旧更級村)の郷嶺山にある孝子観音の建立です。この観音像の建立は、1956年に発表された深沢七郎作「楢山節考」がきっかけです。
物語は姨捨伝説を題材にし、60歳になった親は冬、息子に背負われ山へ捨てられます。食料を盗んだ者は家を取り潰されるなど貧困ゆえの厳しい慣習も描かれています。これが映画(木下恵介監督)や舞台劇にもなり反響を呼びました。
地元の姨捨伝説は、老母は連れ帰られ、領主が他国から受けていた無理難題をその知恵で解き救ったというものです。領主はその後、親を大切にした息子をたたえ、老人を大事にしたという親孝行話であるのですが、世の中の人たちは更級の里を親不孝な土地柄と誤解した向きがあったようです。そこで在京更級会の人たちは「誤りを正し、孝子の栄誉を顕彰したい」と羽尾出身の北村敬三さんを代表に姨捨孝子観音奉賛会を結成し、1961年、郷嶺山頂に観音像を建立し地元に寄付しました。
孝子観音建立に10年先立つ1951年の公民館報には、東京在住の北村敬三さんを館報編集部員が訪ねてインタビューした記事が載っていました。北村さんは墨田区江東橋で「大正堂洋服店」の経営者でした。明治38年(1905)、16歳のとき「将来は日本も洋服一本になるだろうから」と上京し、大正元年に開業したことから店の名を付けたそうです。店の奥には7〜8人の職工さんが仕立てに勤しんでおり、また北村さんは関東大震災と東京大空襲を乗り越えて今日に至った努力家であると館報編集部員は記しています。
戦時色が濃くなって
在京更級会の寄付先の一つである佐良志奈神社(旧更級村若宮、現千曲市)の宮司豊城直祥さんにお聞きしたところ、東京更級会は戦前からあったことが分かりました。会のメンバーが神社で撮った集合写真をお持ちでいらっしゃいました。
左端の旗に「東京更級会」の文字が刺繍されています。中央の背の高い方が直祥さんの父、武志さんです。左隣で背広を着ていらっしゃるのが当時の更級村村長の北村甚兵衛さん、右隣の蝶ネクタイの方が近藤保房さんだそうです。武志さんは昭和17年(1942)にお亡くなりになっているので、戦前の記念写真です。
武志さんは54歳で早逝されたので、直祥さんは若くしてお宮を任され、戦後、更級会のみなさんともおつきあいをしました。近藤保房さんは日露戦争(1904年)で海軍にいたそうです。ロシアのバルチック艦隊を破った戦艦「三笠」に東郷平八郎元帥と同乗していたことから東郷神社とつながりがあり、その関係から東郷神社を事務所にしたのではないかということです。
更級会の方々はご家族とともに戸倉上山田温泉に泊まり、故郷を味わっていたようです。こうした出身者の家族帰省旅行は戦時色が濃くなり、この年が最後ではないかということです。写真の一番前列にしゃがみこんでいる方々が現在、60歳代と思われます。
学校林「安治郎山」
東京更級会のことをもっと知りたい思っていたときに芝原の中村玲子さんが、前述した中村安治郎さんの半生を記した本の存在を教えてくださいました。タイトルは「のろはや」。安治郎さんは写真感材フィルムの再生事業を起こし、そのお人柄を慕う会社関係者のみなさんが編集したものです。
安治郎さんは明治43年(1910)、芝原地区のお生まれです。巻末の年表には昭和35年(1960年)、東京更級会の会長に就任したと記されています。近藤さんの後を引き継いだものと思われます。翌六一年に孝子観音が建立されていますから、安治郎さんの就任直後の大仕事でした。安治郎さんにお話を聞きたいと思い連絡を取ろうとしたのですが、2001年にお亡くなりになったとのことでした。安治郎さんは芝原の阿弥陀堂の新築にも資金を寄付をしていらっしゃいます。
インターネットで会社のホームページを拝見したところ、創業者の安治郎さんのことに触れた記述を見つけました。現在はご長男の健作さんが社長を務める本社が神奈川県にあるのですが、安治郎さんのご遺志で福島県矢祭町に所有していた山林を地元の下関河内小学校に寄付しました。地域の方々には「安治郎山」と呼ばれ親しまれているとのことです。地域への貢献を実践し続けた安治郎さんの精神は神奈川と福島との地にも受けつがれています。
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