明治の町村合併で「更級村」が新村名として長野県に認められるに当たって実は、再申書を初代村長となる塚田雅丈さんは提出しています。ほかにも更級を新しい村の名前にしたいという申請があって、当地の方がふさわしい論拠を提示することが求められたのです。一連の申請の大きな後ろ盾になったとみられるのが当時の佐良志奈神社宮司、豊城豊雄さんです。
肌身で感じた
豊雄さんは天保12年(1841)の生まれで、雅丈さんより七つ年長です。豊雄さんが著した「姨捨山所在考」が有力な論拠になったようです。同書は、姨捨山は冠着山であることを、歌集や物語など数々の古典をひも解いて考証したものです。結果的に更級郡を代表する山が当地にあることから「更級の里」として最も妥当だ、ということを裏づける内容にもなっています。なぜ、そのようなものを豊雄さんが書いたのでしょうか。
「更級郡埴科郡人名辞書」によると、豊雄さんは14歳のころ、神職に就くための勉強に京都に行きました。(更級への旅③でご登場いただいた父親の直友さんの勧めたのだと思われます。)豊雄さんは和歌や古典の中で姨捨が格好の題材になっていることを肌身で感じたと思います。「こんなにも更級、姨捨は、都の人たちのあこがれの地なのか」。あるときは「私はそこの出です」などと誇らしく応じていたかもしれません。
そんな体験をして豊雄さんは、村々を近代的自治体にする明治の町村合併政策の只中に身を置きます。当時は松尾芭蕉が来訪して以来、隣村の旧八幡村にある長楽寺一帯が「姨捨山」として知られ旅の人気スポットになっていたため、もともとの姨捨山は冠着山であることを論証することで当地の特色を強調する狙いがあったと思われます。
姨捨系の原点
豊雄さんは更級小学校の校長を明治15年から四年間務め、学校のある羽尾まで歩いて通っていました。羽尾村の戸長を務めていた雅丈さんとは年齢も近いし、お互いに故郷への思いは強い。「実はこんなものを書いたんだが」と書写したものを雅丈さんに渡したかもしれません。
雅丈さんは「これは使える」と、自信をもって申請書をしたためたように思います。実際、申請書の中では佐良志奈神社という社号をはじめ境内にある石碑などに刻まれた「更級」の文字も有力な根拠にしています。同神社の現在の宮司である直祥さんによると、社標に記された「月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里」の和歌が決めての一つになりました。この知恵を豊雄さんが雅丈さんに提供したということです。
「姨捨山所在考」はその後の姨捨系論文や小説の原点と言ってもいいものです。明治28年(1895)に東京の国学院学士、佐藤寛が出版した「姨捨山考」の中で、一つの重要な参考文献としてかなりの量の文章が紹介されています。その後、昭和11年(1936)長野県東筑摩郡坂井村の西沢茂二郎さん(故人)が両書を踏まえ独自の論考を加えた「姨捨山新考」を刊行します。そして、この「新考」を作家の堀辰雄、井上靖が読み、それぞれ「姨捨記」「姨捨」という短編を書きます。深沢七郎の「楢山節考」もこの延長線上にあると言えます。
豊年虫
豊雄さんがどんな人だったのか雰囲気をうかがうことのできる文献があります。大正、昭和期の文壇に大きな影響を与えた作家、志賀直哉の「豊年虫」です。戸倉上山田温泉で執筆のため宿泊していた志賀が、息抜きに当地を散策したときの様子をしたためた短編です。豊年虫はカゲロウのことで、この虫がたくさん現れると豊作になると考えられていたことから、この呼び名があります。
志賀は千曲川河畔に大量発生したその様子に触れながら当地の風情を味わい深く描いています。この中で散歩の途中、佐良志奈神社に立ち寄り、あごひげの老人のことを記しています。
更級神社。松杉の大きな森に被われた広い境内に緑の暗闇と高い本殿と、七八間へだたって本殿よりも大きな拝殿を持った社だ。曇った静かな夕方だった。本殿の左側の御札を売る所には顎ひげだけある神官らしい老人と、もう一人の老人とが、向かひ合って煙管で煙草をのんでいた。私がそっちを見ながら行くと、老人達も黙って此地を見ていた。(中略)木の高いところは水蒸気に包まれ、ぼんやりしていた。総てが灰色で、恰も夢の中の景色だ。向かひ合って黙って煙草をのんでいる二老人も如何にも夢の中の人物らしかった。そんな事を考えながら十間ばかり来た。その時私は突然背後から大きな声で怒鳴られたやうに感じ吃驚して立ち止まった。「今年の祭には…」こんな事をいっている。今まで黙っていた二老人が、話を始めたのだ。それが大きな森に響き渡った。森全体が大きなドームのようになっていたからだ。
後年に取り込んだ?
佐良志奈神社は夢と現実の境があいまいで、当地の気配を異次元にさせる重要な役割を果たしています。ここに登場する「あごひげの神官」が豊雄さんである可能性があります。
ただ、「豊年虫」を志賀が発表したのが昭和4年で、豊雄さんが亡くなったのが大正六年(享年76)です。10年余りの時差がありますが、この作品も小説です。大正時代に佐良志奈神社を訪ね豊雄さんの姿を見ていた志賀が後年、「豊年虫」に「欠かせない要素だ」として取り込んだとも考えられます。佐藤寛の「姨捨山考」を読んで当地に来ていたかもしれません。当時の作家の間では「姨捨」は取り組むべき大きなテーマの一つだったからです。
更級村が誕生して5年後の明治27年に描かれた境内の鳥瞰図があります。「月のみか露霜しぐれ雪までに…」の歌が刻まれた社標が左下に見えます。本殿の隣には社務所もあります。森はドームのようにも見えます。志賀直哉が訪ねた時の様子にかなり忠実だと思われます。
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