長野郷土史研究会の機関誌「長野」に、「信濃そば」を特集したものがあります。同研究会は長野市と旧更級郡を含む周辺の郡部の歴史を発掘しており、1993年の企画です。その中の一つに目がとまりました。「蕎麦塚のある峠」というタイトルで唐木伸雄さんという方の文章です。
文芸たしなむ気風
峠とは、現在の長野市信更町と同市塩崎との境にあたる鳥坂峠(とっさかとうげ)です。両地域ともかつては更級郡だったところです。ここに俳人松尾芭蕉の句「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」が刻まれた石碑が、道沿いの斜面に立っています。
唐木さんの調査によると、この句は芭蕉が「奥の細道」の旅(1689年)を終えて、現在の滋賀県大津市の石山寺近くの幻住庵にいたときの秋につくりました。弟子たちが訪ねてきたので、新そばでもてなそうとしたのですが、そばはまだ花の時期だったため、そばの花の風情を客人へのもてなしにした、という意味の句だそうです。
石碑は加工の加えられていない自然石、つまり、山野に転がっていた石です。建立された時期は刻まれていないのですが、文政・天保期ごろ、1800年代前半ではないかということです。
この峠は、往古から更級郡や上水内郡の山間地である西山部の村人が稲荷山宿や武水別神社へと下ってくる参詣路でした(西山とは両群の東部を流れる千曲川一帯が平地であるのに対し、西側に位置する山間地のためこう呼ばれます)。江戸後期になると、村でも寺子屋が普及して農民も読み書きを覚え、文芸をたしなむ気風が生まれ、村の有識者たちの一つの趣味的教養として句会が盛んになっていました。
西山部の村々では麻の裏作として秋そばを栽培しました。山際の乾燥したやせ畑が使われました。「かつてはこの峠を登れば白いそばの花が咲いているのを山路のいたるところで見た」と唐木さんは書いています。
そして「いわば更科そばの栽培処のとば口がこの峠にあたっていた。この句碑を建立した村人たちは芭蕉の句碑の風雅な詩情を、そば処に住む同門として、この峠路を往来する人々への歓迎の道しるべとした。自分たちも蕉風の道を極めていきたいという俳諧精進の願いもこめられた蕎麦塚であったと思われる」と結んでいます。
読み終えて「いい文章だなあ」と思わず、唸ってしまいました。
あまねく照らす
私も実際に行ってみました。標高約500メートル。下界は300メートルほどで、さほどの高低差はないのですが、親しみを感じさせる見事なロケーションです。
西山部の山路を来た人は右手に姨捨山(冠着山、標高1252メートル)を遠望するでしょう。前面には千曲川の雄大な水面、稲荷山、屋代、さらに善光寺方面の町並み。夜になれば対岸の鏡台山から上る月がまさしく天上と下界をあまねく照らしたでしょう。
姨捨山に月に千曲川にそばの花―古代から「さらしな」と言えば思い浮かんだものが偽りなく、そろっている場所と言ってもいいと思います。
夜なべで石臼
機関誌「長野」は、「信濃そば」の特集が好評であったので、次号でも「続信濃そば」として企画を続けました。この中では、西山産、つまり蕎麦塚から山の手の山間地で取れたそばを大事に食べてきたことを記した文章があります。桑原地区(旧更級郡桑原村、現千曲市)の象山桑原記念館(現在の呼称は伴月楼記念館)の館長だった関舜さん(故人)が書いたものです。
同記念館は江戸時代の士族のお宅で、幕末の松代藩の警世家でもあった佐久間象山とのつきあいが深かった所です。
関さんが家に残る古文書を調べていたら、江戸時代1850年ごろに、そばの実を西山部から買い求めていたことを示すもの見つかりました。関家では自分の畑でもそばを産していたのですが、ときには大量に仕入れ、夜なべで手回しの石臼で挽いたり、自家用の水車場でそのときに食べるだけの粉に挽いて、そばがきやそば切りにしていたということです。
関さんは「多少黒い皮のまじったそば粉は風味がよくよろこばれた」と書いています。このことから、白いそばを言う「さらしなそば」は、やはり江戸という都市の住人たちがつくった言葉だったことがうかがえます。そばの見せる花の白さも名づけ理由の一つであると思います。さらしなそばの考案者たちはそば切りの姿の中に、花の時季を迎えたそば畑の風情も見たのではないでしょうか。
袋詰め
昭和のはじめころになると「世の中が進んだし、手打ちをしていた祖母は体が弱り、手伝いに来ていたばあちゃんたちも忙しくなって来なくなり、そば切りをつくることが少なくなった」と関さんは記しています。桑原地区の近くにある繁華街の稲荷山から小さな袋入りのそば粉を買ってきて細々とつくるようになったということです。
袋の中のそば粉の多くは同じように鳥坂峠を経て西山部から運ばれてきていたでしょう。稲荷山は産物の集散地として活況を呈していましたので。商い、物流が盛んになること自体はいいことですが、明治の文明開化以降、欧米の食べ物も食卓に並ぶようになったことに加え、経済活動も盛んになり暮らしが忙しくなったことが、晴れの食事としてのそば切りの性格を薄めていったような気がします。
晴れの食事とは「ご馳走」のことです。ご馳走のもともとの意味は物事の支度のために走り回るということです。そば切りにするまでの手間を思えば、言葉の字義にどんぴしゃりです。手間をかけないことによってごちそうの座を転落したとも言えます。
しかし、戦後の高度経済成長、そしてバブル社会を経ていく過程で、そば打ちを「道」の世界に極めていこうという機運が高まっていきます。唐木伸雄さんがお書きになった「蕉風の道を極めていきたい」という江戸時代の更級人の精進の心は、うまいそばづくりに打ち込む現代の人々にも受け継がれているように思います。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。