俳人、松尾芭蕉の更科紀行との関連でよく取り上げられる長楽寺(旧更級郡八幡村、現千曲市)ですが、境内にたくさんある句歌碑の中で、「更級」の文字が詠み込まれたものは二つだけです。
一つは高浜虚子の「更級や姨捨山の月ぞこれ」です。虚子は明治から昭和にかけ「客観写生」を一貫して主張した俳句界のリーダーで、この句は先の戦争の直後、信州に疎開していたときに長楽寺周辺を訪れたときのものです。ただ、あいにくこの時は雨で月は顔を出さなかったということです。そのせいか、感情が動いていないような気がします。
幕末の塵
それにくらべると、もう一つの歌はその思いに迫力を感じます。
世の塵(ちり)を払ふ心は更級や姨捨山にうづむ黒髪
世の中のちらばったごみのようなものを振り払わなければいけない。そのために私は更級の地に来て、姨捨山に自分の黒髪を切って埋めた―ということでしょうか。これは備中、今の岡山県倉敷市あたりの「昌明」という人の歌です。
長楽寺にある句歌碑についての研究をまとめた「姨捨いしぶみ考」(矢羽勝幸著)によると、この歌人についての資料は地元にもなく、名前も知られていないということです。ただ、この歌建が立てられたのは江戸末期とのこと。となると、昌明の思いもなんとなく分かるような気がします。
江戸の徳川政権は戦国時代の戦乱に終止符を打ちました。武士はもともと平安時代の貴族たちの内部抗争を鎮圧するために台頭し、続く鎌倉時代以降は武士による権力闘争が約四百年間続きます。しかし、江戸は太平の世をもたらし、武士は官僚、役人になり、その役割、使命を見失っていきます。
更級を唱えれば
軍艦を率いたアメリカのペリーの来航、鎖国はしていても流入してくる欧米の先進文化。変わらなければいけないのに役人たちは保身に汲々としている…。いえ、ひょっとしたらこんな義憤とは関係なく、妻、子ども、地域とのしがらみがごみのように厄介なものに感じて、そのうさを晴らしに旅に出たのかもしれません。
この碑が芭蕉の面影塚の隣に並んでいるのも意味深です。現在は、自動車が通る道が長楽寺一帯をぐるっと回る形で通っていますが、当時の写真をみると、面影塚の脇を通って上り下りする道がメーン道路。つまり旅人はみなこの面影塚と昌明の歌碑を見ながら行き来していたのです。 これは昌明の思いを当時の人が受けとめた、つまり、多くの人が共感を持ってくれるという気落ちが前提にあるような気がします。
自分の中でなにかを清算したいときに、「更級」を求める気持ち。これは更級を唱えれば、その気持ちに答えてくれる何かを持っていたことを示すものではないでしょうか。
更級を歌枕にさせた原点は、1100年前に編まれた古今和歌集にある「わが心慰めかねつ更級や姨捨山に照る月を見て」とされていますが、時代が大きく変わる時も、更級は心の支えを提供してくれていたわけです。
もう一人、更級にひきつけられたと思われるのが「成俊」です。成俊は今から約700年前の中世、都一帯で実力のある僧(三井寺)でした。漢字ばかりで書かれた万葉集に訓を施して今のような読みができるようした最大の功労者の一人で、鎌倉時代の僧、仙覚が築いた基礎を発展させました。書写本の一つには、いきさつについて自らが記した「奥書」があり、歌学者の佐々木信綱氏が編集した岩波文庫「新訓万葉集」の下巻にも盛り込まれています。
田毎の名前
成俊が万葉集に打ちこんだ場所は奥書には「姨捨山の麓」と書いてあるだけで、その場所については諸説あります。その中でも旧更級村の仙石地区、更級小学校の西側隣の「じょうしんはた」と呼ばれる地籍が有力地の一つです。ここからは中世の骨壷などが多数発掘され、お堂や庵などの宗教施設があったことが確実です。姨捨山(冠着山)を仰ぎ見るロケーションです。
戸倉町誌・歴史編によると、江戸時代・寛文6年(1666)の羽尾村検地帳には、この一帯に字名として「しょうしんた」「上心はた」「上正はた」など五筆が記されているそうです。
地名に残っているというのが重要です。田畑が今のように構造改善事業によって大区画に集約される前、一枚いちまいが小さかったころは、それぞれに名前がつけられていました。歴史的ないわれや地形をもとに命名することによって所有権を明確にするためでした。中には弥五郎という人の持ち物だったことからそう名前がつけられたものもあったそうです。家人たちは「ちょっと弥九郎に行ってくる」と言って出かけ、また周辺の人たちもその畑をやはり「弥九郎」と呼んで、周辺の田畑と区別しました。つまり、多くの人たちが同じように呼ぶことによって土地の名前が定着していくのです。
争乱を逃れて
昔、田畑は、食料だけでなく年貢を生み出す場所として今とは比べ物にならないくらい貴重で身近なものだったでしょうから、「じょうしんはた」と呼ばれるのは、それだけ多くの人たちが長く口の端に載せてきた呼び名だということになります。
中世の多数の遺物、冠着山を正面に、しかも成俊と同じ呼び名の地。これだけの条件がそろっていれば、と考えても不思議ではないでしょう。
では、なぜ成俊は当地にやって来たのでしょうか。奥書には「元弘建武の間、陵谷転変の乱に逢ひて、身を窩居に容ること能はず、忽ち寺門を離れて…」とあります。当時、京都は実権を再び握ろうとした天皇家を中心とする勢力と天皇をあくまで利用した政権をつくろうとする武士らの勢力とが激しく権力闘争を繰り広げていました。いわゆる南北朝時代です。成俊はこの争乱を逃れ、「姨捨山の麓」にたどりついたことがうかがわれます。
本当の独りになりたくて、ここに来て安住を得ることができたのではないでしょうか。更級の地がそのための場所として選ばれた点で「備中の昌明」と共通しています。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。