更級(さらしな)という言葉を初めて意識したのは「更級日記」の存在を知ったときです。中学校の歴史の授業だったと思います。「自分の出た小学校の名前が教科書に載ってる!」。しかも、今から千年も前の平安時代に書かれた古典文学のタイトル! かなり衝撃でした。
周囲の何人かに「このあたり(旧更級村、現千曲市更級地区)のことが書かれているのか」と聞きました。でも、だれもこの日記には関心がなく、この辺のこととは関係のないことが書かれていると分かり、興味はそれ以上に広がりませんでした。
「不惑」と呼ばれる40歳のころ、また気になり始めました。書いたのが女性、しかも、その女性は、特に中高年の女性の間でブームになっている源氏物語を耽読していた、しかし、晩年は不遇、その境遇が生い立ちを日記スタイルで書かせた…とうことが分かってきました。実際に読むことにしました。古文は苦手だったのですが、現代文訳のおかげで概要は分かりました。
確かに、現在の「さらしなの里」のことはなにも書かれていません。著者の「菅原孝標の娘」も、「更級」の地に来たわけではありません。役人である夫が晩年、信濃国に単身赴任したということが記されているだけです。しかし、菅原孝標の娘は明らかに、この里一帯のことをイメージしながらこのタイトルをつけました。図書館に行って研究書も開いたところ、自分の境遇を姨捨山に重ねたという解説がありました。
時空を越えて
これはすごいことです。「更級」の一文字も出てこない日記なのに、あえてタイトルに使う。「文章の中でまったく触れずとも読者には分かってもらえる言葉」という思いが前提にあるということです。時間と空間を超える言葉として、いわば桃源郷、理想郷のような存在として「更級」が口の端に載っていたということです。とてもロマンチックな言葉だったんだと思います。
2003年9月、戸倉町と更埴市、上山田町が合併して千曲市となりました。新市の名前を決めるにあたっての「更科市」との競争は記憶に残っています。旧更級村の一住民としては、「更科市」が採用されなかったのは残念でしたが、住民のアンケート結果は、千曲市=19346票、更科市=17580票と、その差が1866票と僅差なのはうれしかったです。
更級日記が書かれたときから千年を経ても、なお「更級」への思いは強いということです。
「級」が似合う
「さらしな」という言葉はどのように生まれたのでしょうか。
いくつかの説の都合のいいところを取り出して自分流に解釈すると、まず「さら」は「晒す」という言葉と関係があります。布を川の水に晒すと、なだらかに波打ちますよね。「しな」は「信濃」に代表されるように、「坂」を意味すると考えられます。 これを総合すると、小高い山や丘陵地がいくつもあって坂は多いけど、全体としてなだらかな情景を「さらしな」と命名したということになります。
更級郡の最高峰である聖山の標高は1448メートル。人がさほど苦もなくたどりつける高さ。そして更級郡はこの山の頂上から北は犀川、東は千曲川に下っていく一帯を言いますので、この考えもあながち的外れではないような気がします。
埴科、倉科、明科、妻科、蓼科…「しな」とつく地名はたくさんあります。この中で「級」の字でもよく知られているのは、私が知る限り「更級」だけです。これはなぜでしょうか。
級という漢字の成り立ちは、機を織るときに次々に繰り出される糸の意味を表す、と漢和辞典にあります。そう言えば旧更級村には「更級斜子」と呼ばれ、北信一帯にここを技術の起源として広まった織物がありました。「更級そば」は江戸時代から人気を博しますが、そば切りは、糸の姿にも見えます。やはり「さらしな」には「級」が似合う―と言ったらひいき目が過ぎるでしょうか。
メッカの原点
更級という言葉を全国区にさせる大きな核になったと考えられるのが、「続日本記」の中で触れられている「更級郡の建部大垣」の存在です。
続日本記は奈良時代の国史です。日本書紀に続く国の歴史を記したもので、年だけでなく月と日付まで明記した上で、更級郡の建部大垣という人物を朝廷が親孝行だとほめ、税金を免除したと、記しているのです。これが冠着山に姨捨山の別名を与え、小説や映画で姨捨伝説のメッカにしていく原点です。
この、もともとのところ、が大事なような気がします。この一帯でよく知られる姨捨伝説には親思いの子どもとともに、知恵のある老人が登場し、その老人によって国が救われます。親孝行の子と知恵のある老人が存在しつづけないと、この地はオリジナルな「更級」ではなくなってしまいます。
2005年1月、更級郡大岡村が長野市と合併し「更級」の名が地図上から消えます。更級とは何なのか、さまざまな角度から取り上げ、味わってみたいと思います。
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