更旅267号 佐久間象山の「桜賦」を孝明天皇天覧につなげた佐良志奈神社神主の辞世歌

 貧しい人も裕福な人も同じ。春がそこまで来てると思うことにおいては…。
 ここに掲載した歌「賤(いや)しきも富めるも同じことなれや春を隣りと思うこころは」は、厳しい冬が終わりを迎えるころ、春を待つ人々の思いは、異なる立場や境遇であってもみんな同じであるという感慨です。詠んだのは、江戸時代後期の佐良志奈神社宮司、松田直隣(まつだなおちか)さん(1777~1834年)。身分制度がはっきりしている時代に、このような平等思想を反映した歌を作っていたことに感銘を受けました。近づく春を隣人扱いして血の通った生き物のように表現しているところが素敵です。直隣さんの「辞世」の歌です。
 この歌を知った最初のきっかけは、長野県立歴史館で2025年年頭に開催された展覧会「佐久間象山遺墨展~書は人なり」の企画にかかわった真田宝物館学芸員、降旗浩樹さん執筆の信濃毎日新聞記事(1月31日付)。書家としての象山の代表作の一つ「桜賦」(写真左上)が、江戸時代最後の天皇の孝明天皇の天覧となったことを紹介するくだりがあり、そこに佐良志奈神社宮司直友(なおとも)さん(更旅3号参照)のつてで天覧が実現したと書いてあったのです。直友さんは京都の公卿正親町三条実愛(おうぎまちさんじょうさねなる)さん(同328266号参照)と親交があり、実愛さんのルートを使ったといいます。
 初めての情報だったので、そのいきさつについて資料を探していたところ、戸倉町史談会の研究報告誌「とぐら」12号(1986年)の一つの論文(高野六雄さん「佐良志奈神社神主 松田直隣について」)が、松田家と正親町三条家との関係を最初に作ったのが、直友さんの2代前の宮司直隣さんだと指摘。直隣さんのお墓(写真①)を訪ねたところ、裏面(写真②)にここに掲載した直隣さんの歌が「辞世」の文字と一緒に彫られていました。
 しかし、くずした漢字と変体仮名で彫られているこの歌をすぐ読めたわけではありません。高野さんの論文では、直隣さんが俳句と和歌の宗匠でもあったと紹介し、直隣さん作の歌もいくつか載せていたので、お墓から読み取れる漢字や仮名を頼りに、似た歌がないか照合したところ、一致するものがありました。
 高野さんが「いやしきもとめるもおなじことなれやはるをとなりと思うこころは」と活字にしていた歌です。お墓の裏面では「賤もと免るもおなじ故と那連や者るを隣と思ふ故こ路ハ」と刻まれています。高野さんの論文にはこの歌の後に「佐良志奈神社蔵草稿」と書いてあったので、現宮司の憲和(としか)さんに古文書を見せてもらったところ、直隣さんの書の原本がありました(写真③、右列に文字を翻刻)。地域の公式歴史書を作るにあたり、高野さんが佐良志奈神社の古文書調査をしていたことが分かりました。
 この歌を直隣さんが辞世に選んだのは、自分の名前の「隣」という言葉が入っていることも影響しているのではないかと想像しました。「辞世」の文字の左側には俳句と思われるものもあり、「もろともの蓮の浮葉の隣りなり」と刻まれているように見え、ここにも「隣」とも読める字があります。「隣」と推定する字がある結句の部分の彫りがはっきり見えないので、確かどうか分かりませんが、泥の中から出て穢れのない花を咲かせる蓮の葉の中にいる清浄な心持ちを歌った俳句かもしれないと思いました。
 古文書の中に、直隣さんの歌の短冊がいくつかあり、その中の次の一首(写真④)にも感銘を受けました。

 妻の身まかりけるときよめる
 侘人はなもなき山のしら雲と風にまかせていづ地へかゆく(高野さんの翻刻)

 妻が亡くなったときの詠草かと思います。詫人は悲しみに暮れている人の意味なので、頼りにしてきた妻が亡くなり自分の足もとがゆらぎ、風に吹かれてどこかに行っていまうような侘びしさの中に直隣さんはいたのかもしれません。
 江戸時代のさらしなの里の神主がどのような心持ちで生きていたのか。その一端に触れられる地域の貴重な歌の文化遺産です。