51号は、縄文まつり30回を記念し、これまでの友の会だより全50号を一挙掲載した合本を発行したことをトップページで紹介。周囲の山並みの中で頭が一つ飛び出ていることから冠着山(姨捨山)は火山だと思っている人もいます。「本当のところはどうなのか」答えも載せています。合本は友の会の新規入会者に1部贈呈するそうです。
小宇宙「更級」の魅力を一冊に
第30回さらしなの里縄文まつり(2024年10月27日)の開催を記念して、「さらしなの里友の会だより」創刊号から50号まで一挙掲載の合本を制作しました。今年の春、50号を数え、「まつり」も「たより」も節目となり、気持ちを一新して「次の時代と世代を迎えたい」と考えました。合本では、友の会と縄文まつりの草創期を担った人たち(故人を含む)の思いに触れることができます。近年掲載に力を入れている女性と若い人たちの寄稿も読みどころ。友の会だより創刊の経緯などについても書き下ろしました。冠着山(姨捨山)のふもとに広がる「小宇宙」の魅力がたっぷり盛り込まれている一冊です。A4判、フルカラー、214㌻。200部作りました。友の会会員をはじめ、友の会と縄文まつりに縁のある方々に贈呈。余部はこれから入会する友の会会員への贈呈用として、さらしなの里歴史資料館に保管します。
古代体験パークの夏
パーク内の「豊穣の畑」と名付けられた畑の手入れに精を出しました。植えたそばとエゴマ、トウモロコシの水くれや草取り、よく土が崩れる花壇の手入れをしながら、まさに「うだるような暑さ」を体感しました。
「今日も暑いなぁ」。思わず口をついて出ていましたが、それでも、事務作業を離れて広い敷地で思いっきり汗をかく毎日は、とても気持ちが良く気に入っています。トウモロコシは、暑すぎる気温でも水くれが功を奏したのか、大きく育ち安堵しました。
もう一つ、さらしなの里歴史資料館で博物館実習生1名を受け入れました。博物館の仕事を担う学芸員という専門職員の養成課程で、学校の教育実習と同じく、博物館での実習の履修が必要となるものです。博物館の現場で、学芸員に必要な知識・技術などの基礎・基本を修得することが目標です。
受け入れ側も次世代の学芸員を育てるという気概と組織的に受け入れる体制が必要で、千曲市歴史文化財センターから学芸員を迎えて6日間、指導に当たりました。次に会う時が楽しみです。写真は実習の際、縄文復元住居で炉を焚いて燻蒸した時の様子です。
なお、今年度も資料館の体験学習室を会場に、「千曲市歴史講座」全6回を、3月まで月に一度、土曜日に開催しています。定員に余裕がありますので、お申し込みください。テーマは9月の市報か千曲市ホームページをご覧ください。(さらしなの里歴史資料館 学芸係長 宮澤久美)
里麗エッセイ 冠着の子である私 長野市篠ノ井 工藤修
私は、会社員の父と専業主婦の母の次男として、冠着山(姨捨山)のふもとの仙石区に生まれ育ちました。
小さな頃から昆虫やトカゲや沢ガニなどを見つけるのが大好きで、祖父母が農業を営んでおりましたので、畑や近くの山や川へ毎日出かけては、夢中になって生き物を探し、日が暮れるまで遊んでは、帰りが遅いと言って母によく叱られておりました。
そんな私も大人になって結婚し、長野市へ移り住むことになりました。
生まれ育った更級を離れるのは寂しい気持ちがありましたが、幸いにも、消防団に所属していたり、地域の事に関わる機会に恵まれて、故郷と繋がっていることが出来ました。
そうこうして時が経つに連れ、日に日に更級への想いと関心が強くなり、更級のことを少しづつですが学び始めました。
昔のさらしなと呼ばれた地域は、今の更級小学校の通学区だけではなく、もっと広大で、都人も憧れた美しい文化や、豊かな価値観にあふれた名月の里であったと知りました。
いま住んでいる地域もさらしなだと知ってうれしくなり、遠くからでもよく分かる大好きな冠着山に、毎日あいさつをしながら暮らしています。
これからも、自分の心の中で更級人であり冠着の子であると感じつつ、更級の里の豊かな魅力を発見しながら、皆さんと一緒に笑顔になれるように歩んで行きたいと思います。
ありがとうございました。
冠着山は火山か?
冠着山の麓で育った私は、小学校の時、家の正面に見える冠着山は火山(活火山ではないが)だと教えられた覚えがある。友人に聞くと、ほとんど全員そのように教わったと言う。頂上が溶岩でできていて、山が兜のような形をしているので、あれは、溶岩が固まった火山によくある形だ、と教わって、疑いなく「火山だ」と信じていた。
ところが、成人して地学を専門に研究する立場になって、冠着山の成因を考えてみると、幼いころの知識は正しくないことが分かり、びっくり。
冠着山の頂上、その東側にある児抱岩(「ぼこ」とは、ごぞんじのように、信州の言葉で赤ん坊のこと)や北側の屏風岩など、土に埋まって顔だけ出している大きな岩や壁は、火山であった証拠を示す溶岩である。しかし、「冠着火山」から噴出し、積もり積もって山をつくったはずの、火山灰や軽石は山麓には見えない。山麓は、海で堆積した砂や小石などからできている。
冠着山をつくるマグマの噴火が始まったのは約600万年前。噴火が活発になったのが550万年前で、噴火が治まり、山頂の溶岩(安山岩)が冷却したのが500万年前だということがわかっている。火山活動が停止して500万年以上も経つと、雨量が多く地殻変動の激しい日本では、山は削られ、隆起・沈降もあり、山の形は大きく変化し、元の形はほとんど残っていないのが普通である。例えば、50万年前には今の善光寺平(長野盆地)はまだ影も形もなかった。
火山の活動でできた高まりを「火山」(その内で、生きている火山は活火山)という。火山だった時代の冠着山は、現在は、すっかり削られてなくなってしまっている。現在の冠着山は、火山の活動でできた高まりではなく、山の形に削り残されて山になったものである。だから、この山(冠着山)は活火山でないばかりか、火山ともいえない。
なお、現在の冠着山の頂上付近にある「児抱岩」と「屏風岩」は、地下で枝分かれして上昇したマグマが、500~600万年前に、地中で冷え固まったものである。 (羽尾4区・信州大学名誉教授 塚原弘昭)
「堂の山」で野外コンサート
芝原区と仙石区の境にある「堂の山」の整備を始めて4年。今までにも植物観察会やシイタケの駒打ち会などのイベントを主催してきましたが、9月21日、初めて大規模なイベント「第4回ハートのまち(市)ちくま野外コンサート」を、千曲市おもてなし倶楽部さんと共催で開催しました。
堂の山には野外コンサートができる場所がある訳ではありませんので、隣接地を地権者の了解を得て整備し、会場をつくりました。心配なことは天候だけでしたが、ありがたいことに雨は降らず、気温も上がらず、ちょうどよい天候となりました。
堂の山復活プロジェクト実行委員の工藤修さんの法螺貝から始まり、和楽器十色さん、れんげ畑さん(コカリナ)、兄弟デュオ(正村さん)、野崎功さん(篠笛)、棚田バンドさんの演奏が堂の山に響きました。
客席の周りには多くの店が出て、食べ物や新鮮な果物、飲物なども販売しました。地元の農家の方が軽トラックでりんごや梨、栗、ぶどう、柿、杏ジャムなどを売ったのも好評でした。
野外コンサートの企画は、おもてなし倶楽部にいる私の同級生との再会から始まりました。出会いの大切さを痛感した出来事でもあります。また、このコンサートに向けて、堂の山付近の畑では自主的に草刈りをしてくださったり、駐車場としての借用を快く許可していただいたりしました。
このような地元の皆さんのたくさんの協力に心から感謝しています。これからも地域に愛される更級の里山として、仲間と共に整備を続けていきたいと思います。 (堂の山復活プロジェクト事務局・大谷公人)