幕末明治を生きた佐良志奈神社宮司の思い

さらしなの里がある千曲市の公民館報(令和6年8月1日号)に、江戸幕末から明治を生きた佐良志奈神社宮司について書きました。激動のこの時代、境内にある末社の諏訪社に「更級里」と刻んだ宮司の思いに近づこうとしたものです。画像をクリックすると、ダウンロードできます。(文中で触れている「もっと知りたいふるさと32号「さらしなは〝地名遺産〟」はここをクリックしてください)


「更級里」と刻まれた諏訪社

「さらしな」の地名に古来どれだけたくさんの人が心引かれてきたか調べ、約25年になります。江戸幕末生まれの佐良志奈神社(千曲市若宮)の宮司豊城(とよき)(なお)(とも)さん(1815~1879)もそのことに気づき、神社を発展させました。今は新しい祠に再建されましたが、分社の諏訪社の台座に直友さんが刻んだ文字「更級里」に、激動の幕末と明治を生きた直友さんの心持ちを感じたことがあります。
 諏訪社は御柱祭が行われるので、氏子である千曲市の若宮、芝原区の人にとってはなじみがあります。山のある若宮、芝原両区からそれぞれ1本ずつ伐り出し、みんなで引き回し、諏訪社の両脇に建てます。小さな社ですが、祠の裏面の刻字を見ると、直友さんが幕末の嘉永7(1854)年に再建したことが分かり、その台座には「更級里若宮村」と刻まれていました。
 私は特に台座に刻まれた「更級里若宮村」の文字に反応しました。「更級郡」ではなく「更級里」。いまでこそ行政区名ではなく「〇〇の里」と書くのは一般的ですが、江戸時代です。「更級里」の方が、身近で親しみがあると考えたからではないでしょうか。
 直友さんの時代にも御柱祭がありました。老若男女が集まる諏訪の神様の住まいだから、この文字を刻めば「さらしなの里」のイメージがより浸透し、定着するという願いがあったように思うのです。
 ではなぜ、直友さんはそのようなことをしたのか。戸倉町誌によると、天保7(1836)年、直友さんが21歳のとき、近隣の八幡村(現千曲市)の八幡宮が延喜式内社の「武水別神社」と名乗るようになりました。延喜式とは、平安時代の各地の神社名を記した公文書のことで、延喜式内社とは朝廷に認められた由緒ある神社のことをいいます。
 佐良志奈神社という名前も延喜式内社の一つですが、最初からそう名乗っていたわけではないようです。豊城家の古文書で「佐良志奈神社」と記すようになるのは1700年代半ばからで、以降はそれまでの「八幡宮」の呼び名と混在し、直友さんの生まれた1815年以降はすべて佐良志奈神社です。
 直友さんが自分の神社の名前を強烈に意識するきっかけが、嘉永6(1853)年、開国を迫る米国のペリーの浦賀来航ではないかと思います。その翌年に直友さんは諏訪社を「再建」しているのです。当時は日本の独自性を探求する国学が盛んだったので、直友さんも自分の神社の独自性について考え「更級里」と刻んだのではないでしょうか。
 そして直友さんは諏訪社再建から7年後の文久元(1861)年、佐良志奈神社の文字を刻んだ大きな社標を境内入り口に建立します(詳しくは「もっと知りたいふるさと32号「さらしなは〝地名遺産〟」参照」。
 直友さんは明治維新12年後の1879年に亡くなりました。直友さんは幕末から明治にかけ自分の仕える神社が、都人らの大きな憧れであり続けた「更級」にあることを、地域内外にアピールする仕事に取り組んだのです。
 残念ながら、直友さん再建の諏訪社の祠は風化が激しく、2005年、新しい祠に再び再建されました。直友さんの祠は側面にブドウの実やリスの模様が彫られており、デザインや遊び心に富むもので、今も新祠の後ろに置かれています。いずれ境内の土になります。「更級里」が刻まれた台座は、現在はありません。

さらしな堂(芝原) 大谷善邦