さらしな姨捨の里を「月の都」にしたはじまりの歌「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」。この歌が載る古今和歌集では「よみ人しらず」とあり、だれが詠んだかわかりません。しかし、小説家の堀辰雄さん(1904- 1953年)は、平安時代の「更級日記」作者の女性がこの歌を詠んだとするプロットの「姨捨」という短編を書きました。堀さんは戦争を挟んで昭和の前半に活動した文筆家。死にゆくことと生きることについての思索を深めた代表作「風立ちぬ」は、宮崎駿監督の同タイトルのアニメ映画の題材になるなど堀作品は今も根強い人気があります。「姨捨」は代表作を発表した後の晩年に堀さんが創作したもので、「わが心慰めかねつ」の歌は堀さんの中で、「生きるかなしみ」を癒すものとして存在したことがうかがえます。
「姨捨」という作品は、「更級日記」のストーリーを堀さん独自の読み解きで物語にしたものです。物語の大好きな平安貴族の少女が源氏物語の登場人物にあこがれ、宮仕えの苦労を味わい、中年になって貴公子との出会いの場面があり、その筋立ては原作とほぼ同じなのですが、原作では作者が晩年、夫が信濃守として信濃に単身赴任するところを、夫に付き添って一緒に信濃に旅立つという結末にして物語を終わらせています。結末が原作とは大きく違ったのは、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌の存在が理由だったと、「姨捨記」というエッセイで堀さんが書いています。(以下引用は「姨捨記」から、傍線はさらしな堂)
(夫に付き添って信濃に行くという結末にする)ぬきさしならないような気もちも私にはいつか生じてゐたのだ。それは私が自分の作品の題詞とした、古今集中の「「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」という、よみ人しらずの歌への関心である。この古歌は、私には、どうしても自分の作品の女主人公とほぼ似たような境遇にあった女が、それよりもずっと遠い昔に人知れず詠んだもののような気がしてならない。(中略)原文では、信濃に下ってゐた夫はそれから一年立つか立たないうちに病を得て帰京するが、その後間もなく身まかてしまふ。あとに取り残された女は「さすがに命はうきにもたえず、ながらふめれど」遂にまったくの孤独となった自分の身の上を「をばすて」と観じ、そのやうな感慨をその古今集よみ人知らずの歌を本歌とした一首の和歌に托してゐるのだが、私は彼女自身の詠んだその歌よりも、この古歌そのものをこそ彼女に口ずさませたいやうな気がしてならかったのである。それ故、私は自分の作品に特に「姨捨」という題を選び、その作品の中では女主人公をして夫に伴って信濃に赴かしめるところで筆を絶ち、その代わりにただ、その後の女の境遇をそれとなく暗示するかのやうに、そのよみ人知らずの古歌を題詞として置いたのである。
「よみ人しらずの古歌を題詞として置いた」というのは、この作品の物語の文章の前のページに「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌を配置したことをいいます。物語の中で、主人公の女性がこの歌を詠む場面は出てきませんが、冒頭にこの歌を置いたことで、女性が詠んだことを読者に暗示させる仕掛けになっています。
なぜ堀さんは「わが心慰めかねつ」の歌を女性に「口ずさませたいやうな気がしてならなかった」のか。原作が「更級日記」という題になった理由についての堀さんの解釈の部分から推察できます。
なぜこの日記が信濃に因んで「更級日記」と題せられるようになったか。それまでそんなことには殆ど意を介しもしなかったのに、そのとき突然私にそれがはっきりと分かった。月の凄いほどいい、荒涼とした古い信濃の里が、当時の京の女たちには彼女たちの花やかに見えるその日暮らしのすぐ裏側にある生の真相の象徴として考えられていたにちがひなく、そしてさういふ女たちの一人がその心慰まぬ晩年に筆をとった一生の回顧録はまさにそれに因んだ表題こそふさわしいのだ。そして彼女の回想録を読み了らうとする瞬間に誰しも胸裡におのづから浮んで来るであらう信濃の更級の里あたりの侘びしい風物、―さういふ読後の印象を一層深くするような結末を私は自分の短編小説に興へたいと思った。
そこに私がこの「更級日記」を自分のものとして書き変えるための唯一のよりどころがあったと云っていい。
すごい月がある信濃のさらしなの里が、都の貴族女性たちにとっては、華やかに見える日々の裏側にある生の真相の象徴で、そのこととさらしなの里の侘びしい風物が溶け合って一体となった印象を読者に持ってもらいたい、そのためには主人公が信濃に行くことが必要だった―と堀さんが考えことがうかがえます。このような狙いと構想であれば、「わが心慰めかねつ」の歌は、さらしなの里の姨捨山のふもとで主人公の女性に詠んでもらうことが確かに必要です。この歌が堀さんの「姨捨」創作に大きな役割を果たしたことがわかります。
堀さんの「姨捨」の結末が原作と大きく違ったのは、「更級日記」を物語として描き直したことが影響しています。原作は作者の回想録なので、人生の大きな節目について“うそ”を書くわけにはいきません。「姨捨記」によると、堀さんは「更級日記」を少年のころから愛読した読者なので、時間をかけて作者の実人生からイメージを膨らませたのです。物語として女性の人生を描くうえでは、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌を女性に歌わせることがいちばんぴったりくると考えたのでした。
「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌は、「更級日記」作者の女性も読んで知っていました。この歌があって、日記の最終盤に自分が詠んだ「月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵たずね来つらむ」の歌を載せたことが研究者の間では通説です。「月も出でで」の歌は、いわば「わが心慰めかねつ」の歌の本歌取りです。
生きていくときにかなしみから逃れることはできません。堀さんはだれもが抱える「生きるかなしみ」を、「更級日記」作者に代わって「姨捨」で表現しました。そのような表現を通して、人間の生きるかなしみを癒そうとしたと言えます。
2024年は堀辰雄さん生誕120年。長野県軽井沢町の堀辰雄記念文学館では、関連のイベントや企画展を計画しているそうです。
堀辰雄さんについては、次のテーマでも書いています。
更級への旅17号 堀辰雄が口ずさんだ「更級」
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