千年以上前に詠まれた「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌を、日本人のものの見方・考え方の観点で読み解いた人が、東京大学名誉教授(倫理学、日本思想)の竹内整一さん(1946 – 2023年)です。竹内さんは日本固有のやまと言葉や文芸作品をもとに「かなしむ」といった日本人の心情を明らかにしてきた方で、当地での講演会(さらしなルネサンス発足集会2014年)で、月が現れた千曲川が流れるさらしな姨捨の景観がこの歌の誕につながり、日本人のあこがれの地にしたと指摘しました。竹内さんがその根拠にした文芸作品が、今から600年ほど前の室町時代、「わが心慰めかねつ」の歌をモチーフに作られた世阿弥作の謡曲「姨捨」です。
竹内さんが着目したのは、月が現れたさらしな姨捨を「浄土」として世阿弥が描いている部分です。謡曲の語りの文章と、竹内さんの現代語訳を記します。(以下引用は講演録「さらしな姨捨の月が誘うもの」から、話し言葉のためさらしな堂で言葉を補っている箇所があります。傍線もさらしな堂。古文の文体が苦手な方は竹内さんの現代語訳から読んでください)
月の名所(などころ)、いづくはあれど更級(さらしな)や、姨捨山の曇なき一輪満てる清光(せいこう)の影。…諸仏の御誓(おんちかい)、いづれ勝劣なけれども超世(ちょうせい)の悲願あまねき影、弥陀光明に如しくはなし。…月はかの如来の右の脇士(わきじ)として有縁(うえん)を殊(こと)に導き、重き罪を軽んずる天上の力を得る故に、大勢至(だいせいし)とは号すとか。…他方の浄土をあらはす。玉珠楼(ぎょくしゅろう)の風の音、糸竹(しちく)の調(しらべ)とりどりに、芬芳(ふんぽう)しきりに乱れたり。迦陵頻伽(かりょうびんが)のたぐひなき、声をたぐへてもろともに。孔雀(くじゃく)鸚鵡(おうむ)の、同じくさえずる鳥のおのづから、光も影もおしなべて。至らぬ隈(くま)もなければ無辺光とは名づけたり
(竹内さんの現代語訳)月の名所は多くあるが、なかでもこの姨捨山の曇りない、満月の清らかに澄んだ光は、勝劣のない諸仏の中でもとくに尊い阿弥陀仏の悲願をあらわす「弥陀光明」のごとくである。そもそも月は、阿弥陀如来の脇士として、衆生の重き罪を救い取ろうとする大勢至菩薩であり、その相好(そうごう)には、十方諸仏の浄土の様子が映し出され、花鳥風月、とりどり、さまざまのたぐいなきありさまを示し、光も影もおしなべて、至らぬ隈もない「無辺光」につつまれる
「姨捨山の曇りのない光り」の姨捨山とは、冠着山(かむりきやま)のことです。当地では頭が一つとび出た独立峰でさらしなの里のシンボル。ふもとには千曲川が流れ、頂上は平らで、360度見渡せます。謡曲「姨捨」の引用箇所は、月が現れた中秋の晩の当地を「浄土」の情景として紹介し、このあとに姨捨山頂で、捨てられた老女が語りと舞いを、都から来た旅人に披露する様子を描きます。
「浄土」といえる景観の中心の山の頂上に老女はいるのですから、捨てられたとしても心を慰められて不思議ではありません。しかし、世阿弥は老女に「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て…返せや返せ。昔の秋を…思ひ出でたる妄執の心。やる方もなき。今宵の秋風。身にしみじみと。恋しきは昔…」と慰めきれない心の内を歌わせ、嘆かせます。竹内さんはこの場面を次のように読み解きます。
「わが心慰めかねつ」の歌は、この曲で三度歌われるのですが、三度目のここが最も哀切でして、身をよじるようにして歌われています。阿弥陀如来、勢至菩薩の光の中で、こよなく慰んでいたわけですが、しかし、その光は彼女のもっている、その「慰めかねつ」の思いを、いわば透明に消し去ってしまうわけではなかったわけです。むしろその光の中で、「返せや返せ。昔の秋を…恋しきは昔。しのばしきは閻浮の秋よ友よ…」というように、まさにやる方のない、やりきれない思いを掻き立て、悲しみを募つのらせているわけです。
老女は捨てられた悲しみを癒すどころか、一層思いを掻き立てられて、悲しみを募らせているというのです。それでは、老女は悲しみを募らせているだけの存在なのでしょうか。竹内さんはそうではなく、老女が都人に対して悲しみを嘆き、舞った後、消えて姨捨山になったと世阿弥が最終場面で書いていることから、全体として老女は救われていると解釈します。竹内さんの言葉です。
姨捨山の頂上でそういう悲しい、さみしい思いを嘆き、歌い、舞い、踊るわけです。しかし、そうしているうちに、「夜も既にしらしらと、はやあさまにもなりぬれば、我も見えず旅人も帰るあとに…」と、結局、夜明けを迎え、老婆の姿は都の旅人には見えなくなってしまいます。謡曲ではその部分を「ひとり捨てられて老女が、昔こそあらめ今も又姨捨山とぞなりにける、姨捨山とぞなりにける」と描写し、物語を締めくくっています。老女は確かに昔捨てられた、今もまた、ひとり捨てられてしまった。そして姨捨山となってしまった、と。
こういう老女のあり方を舞台に登場させて、世阿弥は何を訴えようとしたのか。むろん世阿弥は、この老婆を絶望に突き落としているわけではありません。そうではなく、このままの形で彼女を救い取ろうとしているということができるように思います。この「わが心の慰めかねつ」という思いを持つこと、またそのどうにもならない心を表現するということを通して、全体として老婆を慰めていくということがあるように思います。
慰めきれない悲しみを、世阿弥は老女に「嘆き」と「舞い」という表現をさせることによって、慰めて癒し、最後に老女を救いとる結末。竹内さんは、そのような物語であったから、多くの日本人の心に残り、受け継がれてきたのが謡曲「姨捨」だと読み解きます。
こうした物語を世阿弥は「わが心慰めかねつ」の歌から発想したのですが、竹内さんは世阿弥の発想に重要な働きをしたのが、当地の景観、「場」の在り方で、それが「決定的に重要だった」と講演で指摘しました。慰めきれない悲しみを救いとることができる説得力のある「場」が、さらしな姨捨だったということなのです。竹内さんのまとめの言葉です。
今日申し上げてきたようなことは、更級・姨捨の地において「月を見る」ということにおいて可能になっているということです。この姨捨の地の光景なり風景なりは、それ抜きには語れないわけでして、姨捨山の頂上について謡曲が「嶺平らかにして万里の空も隔てなく」と紹介するように、この世が浄土さながらの様子であるというのは、この地のあり方を語っているわけです。(“姨捨”という物語性に加え)姨捨山をはじめとする山の形とか、千曲川とか、棚田なども含めてこの山並み、川の流れが一望できる「場」であるという、この景観のあり方が決定的に重要なのでして、そういう「場」があるがゆえに、今まで申し上げ来ているような考え方や感じ方が語られ続け、息づいて来たのだと思います。
竹内さんの講演録は、次をクリックするとダウンロードできます。
http://sarashina-r.com/assets/uploads/2021/11/6e207f7645548b3c13b1791674001cf7-1.pdf
なお、この講演の内容はのちに「『わが心慰めかねつ』の思想構造」というタイトルの論考にまとまり、竹内さんの著書「やまと言葉で<日本>を思想する」(春秋社)にも収載されています。
謡曲「姨捨」については、次のテーマでも書いています。