著名人の心をつかんだ「慰めかねつ」歌③歌を小説に―「楢山節考」の深沢七郎さん

「姨捨伝説」にアイデアを得た小説家深沢七郎さん(1914 – 1987年)の代表作「楢山節考(ならやまぶしこう)」。今村昌平監督が映画化し、カンヌ国際映画祭で最優秀賞(1983年)をとったことから、そのタイトルは今もよく知られています。「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌は、この小説には出てきませんが、「楢山節考」の物語自体がこの歌になっているように思います。年老いた母親を山に捨てるしかなかったかなしみを、慰めようとしても慰めきれない子どもの心のありようを描いた物語とも言えるからです。

「楢山節考」の発表は1956年。若さへの価値が高まる敗戦後の社会と時代の空気に抗う物語と文体であったこともあり、小説や文学を生業としているプロフェッショナルたちの間で、とても大きな話題になりました。特に話題となったのが、山に捨てられる母親「おりん」の圧倒的な存在感でした。

おりんが暮らす山の村では、食糧が足りないことから、70歳になった親は山に捨てられる風習があり、おりんは70歳になる正月を前に、そのための準備を整えます。やがて訪れる自分の死の姿を、社会と歴史、そして子孫の永続性の中に明確に定め、軸が決してぶれることがないその行動と言葉に、多くの読者が心をつかまれました。

「楢山節考」の物語は、このおりんの心の動きを核に、正月にあと数日の夜、息子の「辰平」に背負われて山の奥まで連れていかれ、敷いた筵に座ったおりんの姿を恐ろしくも美しく描いているのですが、その美しさを演出しているのが、息子の辰平です。辰平は母親のおりんをとても慕っており、村の掟とはいえ、母親を山に捨てることがしのびなく、死についてのおりんの軸が動かないことに苦しみ続けるのです。

山に置き去りにされたときに雪が降ると幸運だといわれており、その通り雪が降り始めます。母親を山に背負って運び、家に帰るまでは一切口をきいてはいけない掟を辰平は破り、山を下っているときに降り始めた雪のことを、おりんに伝えに戻ります、しかし、おりんは何も語らず帰れと手で指図するだけです。一連のこの場面での辰平の行いは、おりんを捨てたかなしみと後悔の気持ちと、捨てられた母親を慰めようとする行いです。しかし、そうしたといっても慰めきれない心のありようが作品では描かれます。

「楢山節考」が発表されて話題になったとき、姨捨伝説の里は親不孝の者がいる里だと、作品をしっかり読まない人たちからけなされたことがあったそうですが、これはまったく違います。作品は母親をとても大事にする息子の物語です。

深沢さんがどうして死に方の軸を定めた母親と、それをかなしむ息子という人物設定をしたのか。その理由がわかる記述が残っています。おりんのモデルは自分の母親だとずばり言っている深沢さんの言葉があります。(以下傍線はさらしな堂)

「楢山節考」を書いたのはついこのあいだのような気がするが、もう十五年もたっている。主人公が「お婆あさん」だから妙な小説だと思われたようだが、私には少しも変ではないことなのである。何故なら、私は老人の考えていることが好きだから、その好きなところだけをひとりのお婆あさんにまとめて書いたのだと思う。自分の書いたものに「のだと思う」などという無責任な書き方をするのは申しわけないことだが、私には小説を書くということが、ただ、書きたくなるから書くのである。好きな人を、好きなようにする、それが書くことの魅力なのである。だから、「楢山節考」のおりん婆あさんは私の好きな多くの老人たちの考えかたを、ひとりにしぼってまとめたのである。おりん婆あさんのような人はどこにもいない。だが、どこにもいる老人たちの少しずつ似ているところがある筈である。そんな意味でおりん婆あさんの考えかたに最も似ている人物は勿論、私の一番好きな婆あさん―私の母親である。(深沢七郎傑作小説集「あとがき」から)

「おりん婆あさんの考えかたに最も似ている人物は勿論、私の一番好きな婆あさん―私の母親である」―こんなに率直におりんのモデルが自分の母親と言われたお母さんはとても幸せだと思います。深沢さんは母親が大好きだったようで、その大好きさとおりんの人物像に近い母親の晩年が分かる文章を弟の貞造さんが書いています。死を前にした母親に深沢さんがとっていた態度についての文章です。(深沢七郎実弟深沢貞造「兄のこと」より、別冊新評「深沢七郎の世界」収載)

柿の実が色づくのを見ると、いつもあの時の情景が思い出されます。痩せおとろえて骨と皮ばかりになって歩けなくなった母を背負って庭の木や花を見せて歩いた兄の後ろ姿。また永い病床の床ずれが化膿して痛くて苦しんだ死の直前の重い母の腰を数日間も必死でささえていた兄の両腕のことを。

母は肝臓癌で一年位前から寝たきりだんだん食を受け付けなくなって、亡くなる半年位前の春頃にはその死期の近いのが判るような容姿を見てはその事を妻と淋しく内緒で語った事など。

あとで思い当たった事ですが、兄が「人間の死」ということに対して深く考えたのは母の死に直面してからではないかと思います。息を引き取る直前まで、自分の葬式の事まで気を配った母、水も受け付けなくなり舌がもつれて会話が不可能になってからは筆談までした気丈だった母。

癌にかかったことを自分で気が付いたのが「楢山参り」を決心した「おりん」であったことに私が気付いたのは小説を読んでからかなり経ってからでした。

深沢さんのお母さんは肝臓癌を病み亡くなりました。当時は家で看取るのが常だったので、深沢さんはお母さんの末期にずっと付き添ったのです。母親を背負って庭の木や花を見せた深沢さんの姿が「辰平」に重なります。お母さんは息を引き取る直前まで、自分の葬式の事に気を配り、舌がもつれて会話が不可能になってからは筆談までした気丈だったそうで、「おりん」の姿と重なります。

「楢山節考」には、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌が出てこないのに、出ているような書きぶりでここまできました。しかし、深沢さんはこの歌を知っており、それもモチーフに作品を書いたのではと考える根拠についてです。弟の貞造さんは「兄のこと」の中で、深沢さんの博覧強記ぶりについても書いています。

変人みたいな人が、ときどきとんでもない放れ業をやって家族達を驚かせるのです。いつ覚えたのか、たぶん20数年前に読んだことがあると思われる平家物語の全文を一字一字そのまま暗誦してみせたり、万葉集にしても参考書を引くより手取り早く答えてくれたり、…

深沢さんが広く書物を読み、それをよく記憶して豊かな知識をもっていたことが分かります。「楢山節考」は信州の姨捨伝説をモチーフをした作品だと深沢さんはいくつもの文章で書いているので、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」をもとに作られた平安時代の「大和物語」も読んでいたはずです。大和物語では、母親を山に置き去りにしてしまった子どもの心情を表すものとして、この歌が最終盤に登場し、物語を結びます。

慰めようとしても慰めきれない心。かなしみや嘆きを基調とする演歌やフォークソングにぴったりのテーマです。作詞作曲も手がけるギター奏者でもあった深沢さんなので、この歌の世界を小説に結晶させたように思えます。

深沢七郎さんの「楢山節考」と信州の姨捨伝説の関連については、更級への旅22号をご覧ください。

「楢山節考」は今村昌平監督のほか木下恵介監督も映画化。いずれもアマゾンのプライムビデオで見ることができます(有料)