千曲市日本遺産推進協議会では、千年以上前に詠まれ、古今和歌集に載る「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の歌碑を、建立する計画を進めています。この歌は当地が「月の都」となる「はじまりの歌」であり、当地を全国に知らしめる大きな役割を果たしたことから、建立場所も「月の都」の景観の魅力がさらにアップするところにと構想しています。
さらしな堂では、これまでこの歌の魅力に刺激された古人について紹介してきましたが、現代の作家たちがこの歌をどう読んだのかについても書いていきたいと思います。著名人たちはこの歌に関する散文やエッセイを残しています。それらをできる限り引用し、著名人たちがこの歌にどのような魅力を感じてきたのか読み解きます。1回目は、朝日新聞1面の連載「折々のうた」でよく知られる詩人の大岡信さん(2017年86歳で死去)。
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「わが心慰めかねつ」和歌について大岡さんが書いたものが大活字本シリーズ「四季の歌 恋の歌 古今集を読む 下」(底本はちくま文庫)にあります。この本は近代俳句の創始者正岡子規が古今和歌集に対して行ったダメ出しについて、本当にそうかと修正を迫る論考で、大岡さんは古今和歌集を代表する歌を選び出しNHKのラジオ講座(1976年、計13回)で話したもので構成されています。この中で大岡さんは「わが心慰めかねつ」の歌を秀歌の一つとして取り上げ、「絶唱のひとつ」と指摘しています。この「絶唱」というのがこの歌の魅力をひもとく一つの鍵だと思います。
全文は文尾に掲載していますので、そこでお読みいただくとして、「絶唱」ととらえる理由として大岡さんは、その歌いぶりを挙げています。「わが心」とズバッと歌いだすのは、古今和歌集では珍しい歌いぶりで、自分の実感、主観、溢れてくる想いを一息に吐き出すような形になっているというのです。
ではなぜ、そういう歌いぶりになったのか。大岡さんは心に「激情」を浮かび上がらせる月の景色があったからだと指摘します。
この歌の作者は多分、姨捨山という月の名所に行って月を賞でよう、その月の美しさ、哀れさに旅心を慰めようと楽しみにやってきたのです。ところが月が、あまりにも美しく、冷たく澄みすぎている。なおかつ都を離れて旅をしてきた旅愁も切ない。そのために月を見て、心慰めようというような一種美的な余裕を保った観照の態度などとることが出来なくなってしまった。むしろ月を見て一種の激情が心に浮かび上がってくる、それをうたっている。
大岡さんによると、古今和歌集の歌は、やや余裕をもって、美的に構成していく歌が主流を占めているそうですが、この歌はそうではありません。当地にやってきた都人にとっては、想像を超える月の美しさがあり、月を楽しむというような余裕のある心持ちではいられないほど心が揺れ動き、そのこころの激しい動きを一気に歌に詠みあげた―と大岡さんは推察しています。
自分でも詩を作る大岡さんなので、この歌の作者の心持ちに敏感であることができます。詩人の感性でこの和歌の魅力のメカニズムを明らかにする考察だと思います。旅人の心をそのように動かすほど、さらしなの里姨捨山の月はすごい月だったのです。
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「わが心慰めかねつ」和歌についての部分を抜粋
これは古今和歌集における絶唱のひとつだと思いますが、よみ人しらず、題しらずの歌があります。
わが心なぐさめかねつ更級やをばすて山にてる月を見て よみ人しらず
これはいったい、どんな人が、どういうときにうたったのかわからないのですけれど、都の人が信濃まで旅しての実感をうたった歌であろうと思います。
初句に、「わが心」というふうに、まずズバッと言っているのは、古今集の歌をしては比較的珍しい歌いぶりで、自分の実感、主観というもの、溢れてくる想いを一息に打ち出すような形になっています。「をばすて(姨捨)山」というのは、善光寺平の南のほうにあって、平を一望に納める山です。眼下には千曲川が流れていて、中秋の月の眺めの名所として古い時代から知られていました。この歌の作者は多分、姨捨山という月の名所に行って月を賞でよう、その月の美しさ、哀れさに旅心を慰めようと楽しみにやってきたのです。ところが月が、あまりにも美しく、冷たく澄みすぎている。なおかつ都を離れて旅をしてきた旅愁も切ない。そのために月を見て、心慰めようというような一種美的な余裕を保った観照の態度などとることが出来なくなってしまった。むしろ月を見て一種の激情が心に浮かび上がってくる、それをうたっている。
古今集の歌というのは、大体、ひとつのものを歌うのにも、それをやや余裕をもって歌う、美的に構成していく、そういう歌が主流を占めていますが、この歌はそうではないのです。いろんな人がこの歌を愛誦していますので、有名な歌です。近年では、亡くなった小説家の堀辰雄さんが、この歌を愛していました。堀さんは更級日記の訳といいますか翻案のようなものをやられていますが、この歌を自分は昔から愛誦していたので、それで更級日記に魅かれたのだと、いくつかの文章で書かれています。もともと、この信州更級にある姨捨山は姨捨伝説がからんだ地名で、平安時代の大和物語などにもあるその話は有名です。親同様に仕えてきた姨を、妻にせまられて山に捨てにいった男が、悲しみに耐えられず、この「わが心なぐさめかねつ」の歌を詠んで再び連れてかえり、孝養をつくしたという伝説で、この歌はすでにその前から有名だったわけです。(大岡信著「四季の歌 恋の歌 古今集を読む」から)