明治に「月の都」地域おこし運動 和歌で「月の都」の歴史をたどりました

 以下は「月の都」の魅力を深掘りする講座第3回(最終回)で、「和歌と俳句でたどる月の都の歴史」と題してお話しした内容です(2022年11月12日、長野県千曲市八幡の長楽寺)。「月の都」という言葉が、日本遺産のタイトルとして採用されるに至る歴史的経緯をたどりました。

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さらしな姨捨に古来日本人が寄せてきた思いを知るには、和歌などの文芸が一番の資料なので、いろいろな文献を開き、「月の都」が盛り込まれたものを一つずつ書き出し、年表風(画像をクリックすると拡大)に並べたところ、「月の都」に込められた意味の変遷や拡大と発展が分かってきました。

日本遺産は、外国人をはじめ観光客を呼び寄せて地域振興を図るために文化庁が始めた政策です。きょうのお話が「月の都」の魅力を語るときの一味違う味付け、スパイスになればと思います。

日本遺産認定に向けての実務を担った千曲市歴史文化財センターから、私も日本遺産のタイトルをどのようなものにしたらいいか助言を求められ(2019年9月)、「月の都」という言葉を入れて「月の都『さらしな姨捨』 旅人を若返らせてミレニアム』というタイトルを提案しました。ミレニアムというのは千年という時間のこという英語です。3回目は、この「月の都『さらしな姨捨』 旅人を若返らせてミレニアム』というタイトル案を私が作った根拠でもあるお話です。

お手元にある年表(画像をクリックすると拡大)は、「月の都」が日本遺産になるプロセスという観点で、さらしな姨捨を詠んだ主な歌を時代順に並べたものです。「月の都」という言葉が最初に登場するのは平安時代初期の「竹取物語」です。

竹取物語の「月の都」

竹取物語は、日本で最初の物語とされています。竹取物語より前にも神話や伝説がありますが、これは日本の地域や村々の人たちがみんなで創作したものです。それに対して竹取物語は作者個人の創作だということで、日本最古の物語と位置付けられています。

みなさんご存じのように、竹から生まれたかぐや姫が最後には月に帰って行く物語です。この物語は平安時代初期、平安時代は794年からなので、早ければ800年代には作られていたということになります。これまでの2回の講座で触れてきた「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の和歌も800年代には作られていたと考えられるので、竹取物語とこの和歌の関係が気になりますが、両方とも作者が分からず、資料も残っていないので分かりません。私は、さらしなの里の姨捨山にてる月を見ながら、作者は月に帰っていったかぐや姫のことも思っていたのではなどと考えることがあります。ここではとにかく同じ時期に作られたということを押さえおきたいと思います。

「月の都」という言葉が登場する竹取物語の場面は、「かぐや姫の昇天」という題で章立てされる記述の中です。

かやうにて、御心を互に慰めたまふほどに、三年ばかりありて、春の初めより、かぐや姫月の面白う出でたるを見て、常よりももの思ひたるさまなり。(中略)八月十五日ばかりの月に出で居て、かぐや姫いといたく泣きたまふ。(中略)おのが身はこの国の人にもあらず、月の都の人なり。それをなむ、昔の契りありけるによりなむ、この世界にはまうで来たりける。今は帰るべきになりにければ、この月の十五日に、かの本の国より、迎へに人々まうで来むず。(後略)

竹取物語の前半は、かぐや姫を妻にしたい都の貴族たちの求婚をかぐや姫がすべて断る物語となっており、最高貴族の天皇の求婚をも拒否した後に展開する物語が、「かぐや姫の昇天」です。春の初めごろから、かぐや姫は月を眺めながら物思いにふけって元気がなくなり、中秋の8月15日が近づくと、ひどく泣きじゃくってついに、育ててくれたおじいさんに自分が地球の人間ではなく空にある天体の月にある都、月の宮殿から来たものだと明かすのですが、そのときに自分のことを「月の都の人なり」という言葉で表現します。これが日本の文芸に登場する「月の都」の最初の記述です。なお、この「契りありけるによるなむ」の部分は、また後で出てきますので、ちょっと気に留めておいてください。

源氏物語の「月の都」

竹取物語の次に「月の都」が登場するのは源氏物語です。11世紀初め、西暦1000年代初めの成立なので、竹取物語から100年以上たっています。「月の都」が出てくる場面は次です。

月のいとはなやかにさし出(い)でたるに、今宵は十五夜なりけりと思(おぼ)し出でて、殿上の御遊び恋しく、所どころ眺めたまふらむかしと、思ひやりたまふにつけても、月の顔のみまもられたまふ。「二千里外故人心(じせんりのほかのこじんのこころ)」と誦(ず)じたまへる、例の、涙もとどめられず。入道の宮の、「霧やへだつる」とのたまはせしほど、言はむ方なく恋しく、をりをりのこと思ひ出でたまふに、よよと泣かれたまふ。「夜更けはべりぬ」と聞こゆれど、なほ入りたまはず。

見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども

「月の都」の言葉が入っているこの歌は、天皇の側に使える女性、朧月夜との情事が発覚して都にいづらくなった光源氏が、自ら現在の神戸市須磨区の須磨に下った、いわゆる都落ちの物語「十二帖須磨」の中に出てきます。光源氏が須磨の地から京の都を思い出す場面です。「絵巻で楽しむ源氏物語」という朝日新聞出版のムック本には、その場面を描いた江戸時代の屏風絵が載っており、それを撮影して、ここに載せました。この場面を現代語に訳すと次のようになります。

月がとても美しく出てきたので、光源氏はそうか今夜は15夜だと思い出して、御所で遊んだことが恋しく思い出され、都の人々も物思いにふけっているだろうと思いながら、月をじっと見つめている。(中略)光源氏の周りの人々が「夜が更けました」と言うけれど、光源氏は家の奥には入らない。そして光源氏はこのように歌をうたった。

こうして月を見ている間は、心が慰められる。また巡りあうだろう月の美しい京の都に帰ることができる日は、はるかに遠いことだけれども

「月の都」は美しい月が現れている京都の意味だというのが研究者の通説です。

九条良経の「月の都」

次は九条良経の「月の都」です。九条良経は新古今和歌集の編纂を命じた後鳥羽上皇の側近で、天皇を補佐する摂政だった人、いわゆる政権のナンバー2です。後鳥羽上皇はことしのNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」でいま渦中の人です。尾上松也(おのえ・まつや)さんが熱演しています。残念ながら、良経は番組では登場しないようです。良経は、すぐれた歌人でもあり、後鳥羽上皇をさしおいて新古今和歌集の巻頭、第1番目の歌の位置を与えられています。その歌は「み吉野は山も霞て白雪のふりにし里に春は来にけり」。その良経の作った歌の中に、「月の都」が入っているものがあります。

天つ風みがきて渡るひさかたの月の都に玉やしくらむ

良経が詠んだ歌をまとめた「秋篠月清集」という歌集に載る歌で、2013年に明治書院から刊行された「秋篠月清集・和歌文学大系60」の中で、校注者の谷知子さんが次のような歌の意味を示しています。

空を吹く風が月を磨くように吹きわたる、その月の中にあるという都では、光の玉を敷くのであろうか。

良経の歌では、「月の都」は竹取物語の「月の都」と同じ意味で使われています。良経も竹取物語を知っていてこの歌を読んだのです。

「秋篠月清集」でこの歌を見つけたとき、その隣に次の歌が並んでいるが目に飛び込んできました。

更級の山の高嶺に月さえてふもとの雪は千里にぞしく

さらしなの姨捨山の嶺には月の清い光がさしていて、姨捨山のふもとのさらしなの里には雪が降り敷いて真っ白であるという意味です。どうでしょう。この歌は一つ前にある「天つ風みがきて渡るひさかたの月の都に玉やしくらむ」に登場する月に敷かれている白い光の玉のイメージと重なります。並びは「月の都」の歌のあとなので、読む人によっては「月の都」のイメージをさらしなの里と重ねたかもしれません。まだ、この時点ではさらしなはイコール「月の都」だと認識されていたわけではありません。ただ、これらの歌は、後鳥羽天皇が譲位し、上皇となって最初に主催した「正治初度百首」と呼ばれる百の歌の連作の中で披露されたものです。後鳥羽上皇は良経のほか当時の有名歌人ぞれぞれに百の歌を詠ませて提出させています。後鳥羽上皇に最初に提出する歌ですから、それは話題になったはずです。この「月の都」が登場する歌とそれに「更級の山」で始まる歌によって、「月の都」という言葉が想起するイメージは天体の月、月が現れている京の都にとどまらず、広がっていった可能性があります。

藤原定家の「月の都」

わたしが調べた限り、「月の都」とさらしなの里をセットにして和歌を詠んだ最初の人は、鎌倉時代初めの歌人で百人一首の考案者、藤原定家です。藤原定家も「新古今和歌集」の選者で、後鳥羽上皇に仕えた人、そして次に紹介する鎌倉幕府第3代将軍の源実朝の和歌の師匠だった人です。残念ながら、定家も「鎌倉殿の13人」には出てこないです。その定家が「さらしな」と「月の都」を一緒に詠み込んだ歌が次です。

はるかなる月の都に契りありて秋の夜あかすさらしなの里

この和歌は定家が全国各地の名所を詠み込んだ「内裏百首」と呼ばれる歌の連作の中に入っているものです。奈良の三輪山、京都の小倉山、宇治川といった都の名所をはじめ、全国の名所を題にした歌が100並んでいます。定家はその中の一つとして、「佐良志奈里」という題で、この和歌を詠んでいます。

この歌はどう解釈したらいいのか。研究者の本からまず紹介します。

「藤原定家全歌集上」(久保田淳校訂・訳、ちくま学芸文庫)には、次のような解説が載っています。

遥かな月の都に因縁があって、人々が月を見て秋の夜をまどろまず明かす、更級の里よ。参考「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども」(源氏物語・須磨 光源氏)▽里にもかかわらず都に縁があるという

「遥かな月の都に因縁があって、人々が月を見て秋の夜をまどろまず明かす、更級の里よ」。うーん、意味がよく分からないです。でも、そのあとに参考の歌として、先に紹介した源氏物語の「月の都」の歌を載せています。「見るほどぞしばし慰むめぐりあはむ月の都は遥かなれども」というこの歌の結句にも「遥かなれども」と「遥か」ということばがあるので、定家はこの歌を踏まえ詠んだ可能性があると久保田さんはにおわせています。

そしてその次の「▽里にもかかわらず都に縁があるという」という解説も意味が分かりづらいのですが、田舎のさらしなの里が日本の京の都となんらかの縁があると、この歌を解釈することができると久保田さんは考えているようです。

わたしは定家のこの歌の上句にある「月の都」は、竹取物語で登場した天体としての月の都のことと解釈してもいいのではないかと思います。かぐや姫は自分が「月の都の人なり」と自らの素性を明らかにした後、地球に来た理由について「昔の契りありけるによりなむ」と言っています。この「契り」は約束、因縁という意味で、定家は竹取物語のかぐや姫昇天の場面に出てくる「月の都」と「契り」の二つの言葉を上句に盛り込んでいます。

定家の時代になると、各地の名所を詠む歌は、その地を訪ね旅人となっている都人の立ち場、気持ちになって作るようにもなっていたので、そうしたことも考慮すると、「はるかなる月の都に契りありて秋の夜あかすさらしなの里」の歌は次のような解釈もできるのではと思います。

旅の途上のわたしは秋の夜、京の都からとても遠いさらしなの里にいる。この里に現れている月を見ていると、都のことがいろいろ思い出されるが、そういえば月の宮殿に帰っていったかぐや姫の物語もあったなあ。

定家にもはっきりしたイメージがあったわけではなく、この歌を詠んだ可能性があります。過去の物語や歌を短いことばに統合した表現になっていて、わかりづらくなっているとも言えます。複雑なイメージで味わい深くなっているとも言えます。芭蕉の「俤句」の読み解きをした2回目の講座で申し上げましたが、歌は発表されたあとは、その歌を読む人、鑑賞する人のものです。意味するところ、作った経緯を作者が明らかにしていない場合はなおさらです。

となると、さらしなの里が「月の都」であるとストレートに詠んだ歌ではないということになってしまいますが、ほんとうにそうでしょうか。

わたしのようには調べていない人が読んだとき、そのように複雑に考えることはあまりないと思います。素直に、さらしなの里を「月の都」とみなしていると考える人がいてもまったく不思議ではありません。このことについては、レジュメにある更級村初代村長の「月の都」のところでまたお話しします。

源実朝の「月の都」

次は鎌倉幕府の第3代将軍で、優れた歌人だった源実朝が詠んだ「月の都」の歌です。実朝の歌集「金槐和歌集」には、次の3つが載っています。

九重の雲居をわけてひさかたの月の都に雁ぞ鳴くなる

秋の夜の月の都のきりぎりす鳴くは昔の影や恋しき

ながむれば衣手かすむひさかたの月の都の春の夜の空

「新潮日本古典集成」(新潮社)の一冊として刊行された「金槐和歌集」(樋口芳麻呂校注、1981年)でなされている解釈は、いずれもこの「月の都」を竹取物語の「月の都」、つまり天体の月にある都のことだとしています。

「九重の雲居をわけてひさかたの月の都に雁ぞ鳴くなる」については、「雁の鳴く声が、幾重にも重なった雲をかき分けて、私のいる月の都にまで聞こえてくる。月の都にいる自分を空想し、地上で月前を飛んでいる雁の鳴き声が月宮殿にまで響いてくるさまを詠む」と説明しています。

次の「秋の夜の月の都のきりぎりす鳴くは昔の影や恋しき」については「秋の夜、月の都でこおろぎが鳴いている。あれは昔の月の光が恋しいからであろうか。昔地上にいた時に浴びた月光を懐かしみ、月宮殿で鳴いているこおろぎを空想している」と書いています。

「ながむれば衣手かすむひさかたの月の都の春の夜の空」について書かれている説明は、意味がよく分からないので省略します。

実朝の歌に出てくる「月の都」を天体の月にある都ととらえることに、わたしは同意できません。これらの歌の「月の都」は、京の都のこととして読んだほうがいいと思います。鎌倉幕府は京の都から遠くはなれたところにあり、実朝は暗殺されるまで、京都に行ったことはありませんでした。実朝は藤原定家を歌の師匠としており、京への憧れをとても強く持っていた将軍でした。そうした立場からすると、特に「九重の雲居をわけてひさかたの月の都に雁ぞ鳴くなる」は、はるか遠くにある京の都に現れた月の夜、空を鳴いて飛んでいく雁のこととイメージした方がいいのではないでしょうか。

足利義政の「月の都」

「月の都」を詠んだ歌は、鎌倉幕府の後に成立した足利幕府の将軍の歌にも出てきます。銀閣寺を建立した第8代将軍の足利義政の次の歌です。

帰りくる月の都に秋はまだこころを旅の空のかりがね

100首の歌を載せた義政自筆の巻物の中にある歌です。この歌には「都初雁」という題があるので、「月の都」は必ずしもさらしなのことではなく、秋になって空気が澄んで月が美しくなった京の都に、秋の風物詩である渡り鳥のかりが飛来し、秋が深まりゆく様子を詠んだものでしょう。源氏物語の須磨に登場する和歌の「月の都」とほぼ同じイメージです。

足利幕府の後に続く戦国時代、江戸時代にはわたしが調べてきた限り「月の都」を和歌に詠み込んだものが見つかりません。江戸時代後期の俳句にいくつかあるくらで、明治時代になると、たくさん出てきます。そのことを「更級村初代村長の月の都」として次に紹介します。

更級村初代村長の「月の都」

日本遺産は、地域の文化財や、文化財に値するものをキーワードでつなげ、観光客を呼び込んでもらおうと文化庁が始めた政策です。千曲市には風景の国宝ともいわれる国の重要文化的景観の「姨捨の棚田」がありますが、これだけだと周辺の観光資源に人がなかなか流れないので、千曲市は「月の都」という新たなキーワードで日本遺産に認定されたのですが、「月の都」による地域PRは、明治時代に更級村が行っていました。更級村は昭和の市町村合併で村名は消滅しました。しかし、冠着山のふもと、千曲市更級地区という地区名で今も残っています。「月の都」という地域PRを中心になって進めたのが、初代村長の塚田雅丈(まさたけ)さんです。塚田小右衛門と紹介されることもありますが、小右衛門は塚田家の代々の当主が受け継ぐ襲名で、ここでは地元で使われている通称「がじょうさん」という呼び名で以下お話します。

雅丈さんは冠着山が古くから姨捨山と呼ばれて来た山であることを証明し、世間に認めさせた人です。その麓の空間を「月の都」と見立て、自分の和歌に意欲的に詠み込み、「月の都」と書かれた提灯を自宅に掲げて著名人を招き、「月の都」の和歌をいくつも詠んでもらっています。そのことは「姨捨山の文学」(矢羽勝幸著)などで知ってはいたのですが、雅丈さんのご子孫、塚田せつ子さんから、雅丈さんが作った和歌集を見せていただき、さらに多くのことが分かってきました。

縦20㌢、横13㌢、80㌻の小ぶりの大学ノートに、さらしなにまつわる古今の歌を筆で書き留めています。表紙には「古今姨捨山詩歌集」、裏には「月都古今歌集」と書かれ、冠着山の麓が「月の都」であることを強烈に誇るものです。今では子どもたちも使うノートの呼び名の大学ノートは明治時代、東京大学前の文具と洋書を売っていた店が考案したとされ、当時は高価なものだったそうです。和本という日本古来の本の形でななく、大学ノートに古今の姨捨山にまつわる歌をしたためたところに、新しい時代の地域をリードしようとした雅丈さんの意気込みを感じます。

そこに記されている「月の都」の歌を紹介していきます。まず、明治22年、西暦では1889年、雅丈さんが主導して冠着山の麓の羽尾、須坂、若宮の3つの村をまとめ、新しい村の名を更級村と決めたときに作った和歌です。

君が代に月の都と言ふべきはこの更級の姨捨の山

この歌は新しい村名を更級村とすることを決めた直後の明治22年3月9日、信濃毎日新聞に投稿し、載りました。長野県、全国の人たちに、さらしなの里のシンボルである姨捨山の別名を持つ冠着山のふもとの更級村が、「月の都」であることを知らせようとしたのです。明治天皇が統べる日本の「月の都」は、さらしなの里であるという強烈な自負を感じさせます。雅丈さんも和歌の歴史では、「月の都」といえば、月が現れている京の都のことを指すことを知っていたと思います。しかし、さらしな姨捨を詠んだ古今の和歌や俳句、さらに謡曲の「姨捨」の内容を知って、自ら古今姨捨山詩歌集を編んでいくときに、歴史上の有名人がこんなにさらしな姨捨の月をすごいと詠んできたのだから、「月の都」はさらしなの里こそふさわしいということに思いが至ったのだと思います。それで裏面に「月都古今歌集」という隠れタイトルを付けた可能性があります。つまり、雅丈さんの頭の中では、さらしなの里は月が特別に美しく長い歴史と厚みのある文化をはぐくんできて、月を愛でる日本人の中心的な場所であることから、「月の都」と言うことにしようと決意したのではないかとわたしは想像しています。

いち地方ではありますが、「月の都」と呼ぶ発想を得たのは、当時、政治の中心としての都が京から江戸に移ったことも影響していると思います。西の京都に対して、江戸は東にあるので、東の都、東都という言葉も誕生しました。つまり、都というのは絶対的なものではなくなり、相対化されていたのです。そのことに気づくことができた政治家、リーダーでした。

実は更級村という村名自体が、雅丈さんの戦略的なものなのです。羽尾、若宮、須坂の3か村の合併でできた名前で、自治体合併では必ずと言っていいくらい、合併後の何にするかでもめるのですが、雅丈さんは「更級村」で推し進めました。雅丈さんは「苦情もこれ有り候とも、わが意見を以って更級村と改称する」という言葉を残しています。それくらい更級という地名の価値を確信していたのです。更級村という名前を世に送りだした次に村おこしとしてやるべきことは、更級村を「月の都」としてのPRすることだと考え、突き進みました。次はそのことがうかがえる雅丈さんの和歌です。

久方の月の都は信濃なる冠着山の峯にこそあれ

昔から「月の都」と言われてきた地は、冠着山の峰にあるという、力強い宣言です。政治的な主張が込められた歌です。当時は歌を詠むことが文化人から政治家まで有力者の大事な教養でした。

雅丈さんは当時、温泉地としてにぎわいを見せていた戸倉上山田温泉に著名人が東京などから訪れるようになっていたこともあり、明治政府の要人や文化人を自宅に招き、さらしなが「月の都」だと紹介しました。「汽笛一声新橋を…」で知られる「鉄道唱歌」の作詞者大和田建樹さんもその一人で、明治29年の中秋のころ、冠着山に登った後、雅丈さんの案内でさらしなの月を堪能し、「月の都」の歌を作りました。

今よりは人に誇らんいにしへの月の都の月を見つれば

大和田さんは東京に戻り、知人友人に月の都としてのさらしなのことを語ったでしょう。

大和田さんの歌のほかにも、雅丈さんの熱意に意気投合した人たちの「月の都」を詠み込んだ歌がいくつもあります。まずは

久方の月の都を人とはば雲の上なる冠着の山  佐藤寛

佐藤寛さんは現在の国学院大学の前身となる皇典講究所の教授だった人です。雅丈さんはこの佐藤寛さんに依頼して「古来、姨捨山とされてきたのは冠着山である」ことを証明する本「姨捨山考」を出版しました。1000部を印刷し、全国に配布しました。出版費用は自費でまかなったそうです。そうした関係のある佐藤寛ですから、雅丈さんの「「月の都」による村おこし戦略に賛同して、この歌を作ったのです。

次は、同じく「月の都」による地域起こしに賛同した石川県出身の歌人の歌です。

いにしえの月の都を人とはば雲井にちかき姨捨の山  大島浮名

大島浮名さんは、冠着山のふもとが「月の都」であることを宣伝するために雅丈さんが冠着山のふもとの里山の郷嶺山に建てた観月殿の建設に一緒に取り組んだ人で、21歳で脱藩して諸国を流浪し、61歳のとき更級村にやってきたそうです。剣道、和歌などを更級村の人に教えました。文人でもあったので雅丈さんの力になり、当地を世に知らしめる役割を担いました。この大島さんの和歌は、雅丈さんが大きな石に刻んで、今も歌碑として郷嶺山に建っています。

こうした雅丈さんたちのPRが広まっていき、明治政府の要人や宮内省の関係者も当地を訪れ、冠着山に登ったり、観月殿や雅丈さんの家に立ち寄るようになります。さらしなの里を「月の都」と詠んだ宮内省関係者の和歌を二つ紹介します。宮内省は明治になってできた天皇や皇室に仕える人たちの役所のことです。

仰ぎ見れば羽衣干してなり光り月の都の冠着の山  藤野静輝

藤野静輝(ふじの・せいき)さんは江戸末期、愛媛県に生まれました。東京に出て皇室の祭典や儀式などを担当する宮内省式部職につきました。詩歌や文章、書画をかくのに優れ、退官後は、歴史研究のため各地を回ったそうです。月都古今歌集では、この歌を藤野さんが「明治33年観月殿で詠んだ」と記されているので、雅丈さんに案内されて冠着山に登り、観月殿で月見をしたときの歌となります。

この歌に出てくる「羽衣」は「竹取物語」の最終盤で、かぐや姫が月に帰るときに着た「羽衣」のことをイメージしたものです。観月殿から仰ぎ見た冠着山の嶺は羽衣が広がったように、月の光を浴びて輝いている様子を歌にしています。下句の「月の都」は、雅丈さんが村おこしで考案したキャッチフレーズの「月の都」のことですが、文芸に通じていた藤野さんは1000年前の日本で初めて作られた物語の竹取物語に登場する「月の都」のイメージを重ねたのです。冠着山とそのふもとの里の価値を一層高める歌と言っていいと思います。

もう一つ。

更級の月の都に来てみれば名にも勝ると猶おもひけむ

この歌は皇室の歌会始など歌に関する事務を取り扱う宮内省の御歌所の職員だった交野時万さんが明治36年、雅丈さんの家と観月殿に立ち寄って詠んだ歌です。意味は分かりやすですよね。

「月の都」の俳句もひとつ紹介します。

この舟をあがれば月の都かな  水野竜孫

水野竜孫さんは千曲市の東側に位置する現在の長野県上田市の俳人で、大和田建樹さんと一緒に雅丈さんの家で開かれた宴に同席していたので、雅丈さんの「月の都」地域おこし構想に共感して、この句を詠んだものと考えられます。上田からやってくるときは千曲川の東岸から船で渡ってきたんです。冠着山がそびえる対岸の景色を見たときの感慨を詠んだ俳句です。雅丈さんの月都古今歌集には、先に紹介した信濃毎日新聞への投稿掲載以後に俳人が作った「月の都」の俳句が、水野竜孫さん以外にもたくさん載っています。

月都古今歌集には、藤原定家の「月の都」のところで紹介した「はるかなる月の都に契りありて秋の夜あかすさらしなの里」の歌も載っています。

雅丈さんは定家のこの歌に刺激を受け、さらしなの里を「月の都」というキーワードで売り出すと思いついた可能性もあります。

雅丈さんが「月の都」という言葉を積極的に使ったのは、雅丈さんの家が羽尾という千曲川を見下ろす地区にあったことも関係しているのではないかと思います。鏡台山付近から昇る月をいつでも眺められる高地に暮らしていたので、眼下に広がる奥行きのある空間は、「月の名所」よりも「月の都」と呼ぶ方がふさわしいと思ったかもしれません。

なお、残念ながら「月の都」という村おこしは、大正11年(1922)、雅丈さんが亡くなってしまうと、下火になり、電気が使われるようになって家の中も明るい時代になるにつれて、人々の月への関心自体が薄れ、続きませんでした。

もうひとつなおです。当地について「月の都」という言葉で詠み込んだ江戸時代の俳句についてです。姨捨にまつわる俳句研究の第一人者矢羽勝幸さんの「姨捨山の文学」には、現在の千曲市戸倉生まれの宮本虎杖さんが天明3年、西暦では1783年に詠んだ「俤や月の都はゆきのはる」と、天保7年(1836)に鴫立庵雉啄(しぎたつあんちたく)という人が作った「旅なれや月の都に月の秋」という句が載っています。宮本虎杖さんの句はおわかりの通り、芭蕉の「俤や姨ひとりなく月の友」を踏まえた句です。まだ、広く認識されていたわけではありませんが、雅丈さんと同じ意味で「月の都」の言葉を使っていた俳人が江戸時代にもいたことは押さえておきます。

正岡子規の「月の都」

次は余談としてお聞きください。近代俳句の創始者、正岡子規に「月の都」という小説があります。講談社1976年発行の「子規全集第13巻」に載っています。これは世に打って出ようとした子規の最初の小説で、まだ俳句に本格的に打ち込む前の明治25年(18922)、子規が26歳のときの作品です。文語調なので幾度となく読み直し、大筋は分かりました。当地さらしな・姨捨にまつわることは何も書かれていません。しかし、子規が「月の都」という言葉にどんな世界をイメージしていたかを知ることができます。

400字詰め原稿用紙で30枚弱の中編小説。好きになった女性が別の男と歩いているのを見て、出家する男が主人公です。

「美の象徴」とみなしていた女性の不義に絶望した主人公の男は、美を「月の都」に求めます。「月の都」への旅に出るのです。旅立つに当たって「理想の美人を人間に求めしこと第一の不覚」と男が言っているのが印象的です。

ではその「月の都」とはどんな所か。具体的な地名が記されているわけではありません。男の心境の大半を仏教の用語や世界観を引いて描いており、子規は仏である阿弥陀如来のいる「西方浄土」をイメージしていたことがうかがえます。

芸術の本質は美です。文芸も芸術です。明治になって文学の美とは何かということに、多くの小説家たちが関心を深めており、子規もその一人でした。26歳の時点での子規が持っていた美についての考え方がこの小説に反映していると思います。

子規が浄土のイメージをどのように持っていたか直接の資料は見つかっていませんが、26歳ごろ各地に旅をしたときに被っていた菅笠には「西方十万億土巡礼」と墨書きしています。「西方十万億土」とは経典の一つ「阿弥陀教」の中に登場する言葉で、「十万億土」というのは、はるかかなたにある極楽浄土という意味ですから、子規は浄土と自分の目指す美の世界を関係付けて旅をしていたことがうかがえます。

子規はこの小説を書いたあと、文学を愛好する親しい友人が亡くなって次の句を詠んでいます。

鶴鳴いて月の都を思ふかな

亡くなった友人の詩の中に「鶴」がよく登場していたことから、この句の鶴はその友人のことを指すのではという解釈があるので、この句の「月の都」も浄土をイメージしたものとすると読みが深くなる気がします。

芭蕉の「月の都」

もう一つ余談です。

2011年に、私は千曲市観光課と一緒に「月の都」という言葉を盛りこんだ観光キャッチフレーズとロゴマークを作ったことがあります。キャッチフレーズは「芭蕉も恋する月の都」です。ロゴマークは漫画家絵本作家のすずき大和さんと一緒に作った単行本「まんが松尾芭蕉の更科紀行」の中に登場する芭蕉のキャラクターを使ったものです。満月の中に芭蕉と、芭蕉に随行した越人と権七の3人を描いています。

ロゴマークというのは地域の歴史・文化的な遺産などを踏まえイラストタッチに表現するもので、地域の現状だけでなく未来の目標を落とし込み、内外の人たちに地域への愛着を持ってもらうためのものです。これまで紹介した「月の都」の意味の変遷も調べていく中で、「月の都」はキャッチフレーズに使えると思っていたので、これまで宣伝するときに使ってきた「名月の里」のイメージを、俳聖とも呼ばれる松尾芭蕉が来訪した地であることを強調することでパワーアップしたいという狙いをロゴマークに込めました。作って数年は観光関連の印刷物を中心によく登場していたのですが、残念ながら今は登場しなくなってしまいました。日本遺産「月の都千曲」の前には「芭蕉も恋する月の都 千曲市」がありました。

まとめです。

「月の都」が文芸に最初に登場するのは平安時代前期に作られた竹取物語。天体の月にある都を意味していました。平安時代中期に作られた源氏物語の中では、月が現れている京の都の意味で使われました。この用法と意味するところは、その後長く続きました。

江戸時代後半になると、さらしなの里を「月の都」と詠む俳句もちらほら現われ、明治時代になって、更級村初代村長が月が特別に美しい歴史文化のまちという意味に発展的にとらえ直し、京の都から切り離し、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の和歌以来、都人たちがあこがれてきたさらしなの里の呼び名として使うようになりました。月が出ている京の都を意味する「月の都」は、鎌倉時代初めの藤原定家が月の都とさらしなをセットにする歌を読んだことによって月の都としてのさらしなの里の認識が広まっていった可能性があり、更級村初代村長はこの定家の歌を知って、さらしなの里を月の都として地域おこしをしようとした可能性もあります。

更級村初代村長は宣伝や定着の手段として、地元だけでなく東京をはじめ賛同してくれる知識人、明治政府の要人や宮内省の関係者をさらしなの里に招いて、そのすばらしさを体感してもらい、「月の都」の歌をいくつも詠んでもらったのでした。天体にある月の都、月が現れた京の都といった意味で使われるのが中心だった「月の都」という言葉の意味するところ刷新しようとしたと言っていいのではないかと思います。東の都、東都という言葉が盛んに使われるようになって、都の意味が相対化される明治維新という新しい時代の到来も後押ししたと思います。月の都と呼ぶにさわしい実体と歴史を持つのは、さらしなの里だという強烈な自信と自覚が更級村初代村長にはあったと思います。

更級村初代村長の「月の都」による地域おこし戦略は、電気が暮らしに入って日本人の月への関心が薄れ、戦後は石原慎太郎さんの小説「太陽の季節」がベストセラーになったことに象徴されるように、月よりも太陽への関心が強まる時代となり、とん挫しましたが、地球環境問題など人類の存続が脅かされるような心配が支配的な今、再び月への人々の志向が強まっているのは確かです。そういう時代を反映して「月の都」が日本遺産にふさわしい言葉として文化庁に認められ、「月の都千曲」があるわけです。

千曲市が月の都ってどういうこと?と聞かれたらなんと答えますか。棚田、田毎の月、鏡台山の月…。これに加えて、きょうお伝えした和歌のいくつかを示したり、かぐや姫のことを語りながら、地元の魅力を紹介するのもいいのではないでしょうか。

いま、京都が「月の都」だと思う人は少ないと思います。「月の都」として日本遺産になった長野県千曲市は、源氏物語に登場した「月の都」の本家である京都から、その称号を受け継ぎ、長い歴史文化を備えた美しい言葉として、後世に伝えていく資格と責任を持ったとも言えます。

なお、冒頭でお示しした日本遺産についてのわたしのタイトル案「月の都『さらしな姨捨』 旅人を若返らせてミレニアム」のサブタイトル「旅人を若返らせてミレニアム」の意味ですが、講座の1回目で読み解いた「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月を見て」の和歌が1000年前に詠まれて以来、さらしなの里が「姨を捨てるところ」ではなく、実質的には「若返りの里」だったことを踏まえています。歌を作ったり、読んだりすることには、心がすがすがしくなって血の巡りがよくなって、心も体も健康になる働きがあるからです。高齢社会の時代の観光客の迎え方として有効な考え方、言葉だと思ったので、千曲市歴史文化財センターに提案しました。

千曲市は「月の都」であるという認識が地元で定着し、全国に広がり、世界にもTHE MOON CITYとして通用するようになる日が来るのを願います。広辞苑で「月の都」を調べれば、「長野県千曲市のこと。2020年に文化庁から日本遺産に認定された」というような記述が加わる日が来るのを願って、「月の都」の魅力深掘り講座最終回終了です。

ありがとうございました。