さよならとさらしな

 東京大学名誉教授(倫理学)の竹内整一さんの著書「日本人はなぜ『さようなら』と別れるのか」を読んでいるうちに、「さようなら」という別れの言葉と「さらしな」はとても似ていると思うようになった。竹内さんは、長野県千曲市に残る地名「さらしな」を地域づくりに生かす活動をしている「さらしなルネサンス」顧問。古代のさらしなを詠んだ和歌「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」に日本人の精神性の原点を読み解いた人だ。竹内さんの著作はこれまでも幾度となく開いてきたが、「さよなら」と「さらしな」には、とても似た音色を感じる。

 「日本人はなぜ『さようなら』と別れるのか」によると、「さようなら」はもともと「さようであるならば」という副詞の言葉から生まれた。名詞ではなかった。「そうであるならば」といったん過去に区切りをつけ、新しいことへ期待を相手との関係や自分に表明する心の構えを反映した言葉だという。こういう成り立ちがある別れの言葉は世界的には異色だそうだ。竹内先生は著書でなぜそのような言葉が別れの言葉として定着したのか、過去の日本人の論考やエッセイなどを紹介しながら明らかにしようとしている。

 「さようなら」は平安時代にはすでに現在の別れの意味でつかわれることもあったが、広く使われれるようになったのは江戸時代後半だとのこと。現代では「う」を省いて「さよなら」の方が身近だ。「さよなら」SAYONARAと「さらしな」SARASHINA。ともに4音で成り立ち、SA、RA、NAの3音が共通。すがすがしさと躍動を感じさせるSAとRAがともにある。そのことが別れの場でも明日への期待が込められる「さよなら」を大衆的な言葉にしたと考えるのはこじつけがすぎるだろうか。

 ただ、「さよなら」をふだんの暮らしで使うことは今あまりなくなった。「じゃあ」「また」「おつかれさま」と言うことの方が多い。歌謡曲のタイトルには結構「さよなら」がある。今はあしたの生活や命が昔より保障されるようになったので、「別れ離れ」を実感させるときに限定されるようになったのだろうか。