古今和歌集は10世紀初めには成立していたので、「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」の歌は、おそくとも800年代にはできていたと考えられます。日本最初の歌集「万葉集」にのる歌が詠まれていた700年代に作られたことだって否定できません。編纂者の大伴家持の目には入らなかっただけかもしれません。いすれにしろ当時は、思いついたことを57577のリズムで書きとめておくというような現代人の作歌作法とは異なり、歌を詠むことは公的な行いでした。(画像をクリックすると、1枚で印刷できるPDFが現れます)
歌人で早稲田大学名誉教授の佐佐木幸綱さんの著書「万葉集の〈われ〉」によると、中央集家国家をつくっていくときに、地方に赴任した役人は盛んに宴席を開き、関係を深めるコミュニケーションツールとして歌を作っていたそうです。万葉集には「宴席で詠まれた」と説明が添えられて載っている歌がたくさんあり、有名なのが新元号「令和」の典拠となった、九州大宰府で大伴旅人が主宰した「梅花の宴」です。歌は宴席で詠まれるのが一般的だったのです。
一方で万葉集には、作者が記されていない出典不明の歌もたくさんあります。これはだれが詠んだかわからないという意味では必ずしもなく、名前を記すほどではない下級役人やその家族のものであるからと考えることもできるようです。これらの人たちも宴席の場で歌を詠むことがあったはずなので、「慰めかねつ」の歌は、さらしなの里を訪ねた都の役人が都に戻ってから宴席で詠んだ可能性もあるのではないかと思います。さらしなの里には東山道の連絡道(更旅34号)が通り、更級郡や埴科郡の在地の豪族が運営する役所(郡家、更旅69号)もあったため、訪ねてきた都の役人をもてなす宴席も開かれていたでしょう。そこで「慰めかねつ」の歌が詠まれた可能性もあります。