更旅252 都人が山の呼び名を新たに考案-「慰めかねつ」和歌の誕生

 900年代初めに古今和歌集に載った「わがこころ慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」が、さらしなの里を日本に知らしめました。更旅250号で、その大きな理由が「さらしな」と「おばすてやま」の相反する音色とイメージの言葉の響き合いにあると書きました。それにしてもです。「おばすてやま」などという残酷で暗い名前を、里で生まれ育った在地の人がいつも見上げている山につけるとは考えられず、やはりさらしなの里を訪ねたり、行き来したりしていた都の役人など旅人の名づけの可能性が高いと思います。(画像をクリックすると、1枚で印刷できるPDFが現れます)

 ただ、さらしなの里のシンボルである冠着山が最初から「おばすてやま」と別名をつけられていたかは疑問です。現在は長野市域にあり、かつては更級郡だった長谷寺は、古今和歌集成立の前にすでに創建されていたと伝わり、背後の山は長谷山(はせやま)と呼ばれていたとされます。長谷寺は古代さらしなの里を治めていた豪族小長谷部(おはつせべ)氏の氏寺でもあったとの説もあります。「つ」は話すとき、小さな「っ」になりやすい促音なので、さらしなの里人は「おはっせべ(小長谷部)」「はっせやま」と呼んでおり、それを聞いた都の旅人が姨捨(おばすて)を勝手に連想して呼び方を変え、まず長谷山を「おばすてやま」と呼んだ可能性があります。

 なぜ都人がまず長谷山の呼び方を変えた可能性があるかというと、長谷寺沿いには都から信濃国に入り冠着山の西側の峠(古峠)を越え日本海側の国々へとつながる連絡道(東山道支道=とうさんどうしどう)が通っていたからです。都人の往来が盛んでした。境内からは冠着山が頭一つ抜けだし神々しく見えるので、都人はあそこが「越えてきた峠か」「これからあの峠を越えるのだな」などと冠着山のことを大いに話題にしたでしょう。さらしなの里に現れる月の美しさは「おばすてやま」といっしょに詠むとそのすごさがよく伝わると、「慰めかねつ」和歌の作者は思ったはずで、その「おばすてやま」は長谷山より冠着山とした方が迫力が増すため、いつしか「おばすてやま」は冠着山に移動したということかもしれません。

 いずれにしろ、都の旅人が「おばすて」「おばすてやま」と口ずさみ、「その通りだ」「それは面白い」などと評判になり、その呼び名が広まっていったと考えられないでしょうか。歌の素養のある人は、在地の人が話す「かむりき」よりも和歌に使えると思ったのではないでしょうか。その方が都への良いみやげ話にもなります。

 「姨捨山」誕生の経緯については更旅34,35号もご覧ください。