長野県千曲市にあるさらしなの里を全国に知らしめた古今和歌集の「わがこころ慰めかねつさらしな姨捨山にてる月をみて」の作者は「よみ人しらず」と記され、どんな人かわからないのですが、この問題についても信州大学名誉教授滝沢貞夫さん(2016年死去)の説(「しなの文学夜話(上)」)を踏まえ、推論を書きます。(画像をクリックすると、1枚で印刷できるPDFが現れます)
歌の素養
滝沢さんは、さらしなの里を訪れた都の旅人だったと指摘しています。都の旅人は、故郷の都の方角の空をさえぎる山の嶺を見ながら、さらしなの里の清澄な空に美しく白く照り輝く月を見て、旅の孤独感が一層募り、郷愁の心が身にしみたのだろうというのです。そう解釈できる根拠は明示されていません。国文学の専門家としてこの歌が作られた800年代にさらしなの里に生まれ育った在地の者に和歌を詠めるほどの素養はなかったはずだからと考えたのではないかと察します。
当時は都の役人が全国に派遣されて各地を治める時代(中央集権国家)が始まっていたので、歌を作った人はさらしなの里に役人として赴任していた人である可能性もありますが、いずれにしろ歌の素養がある都人であることは間違いないでしょう。
月と山を詠んだ阿倍仲麻呂
そしてここからがわたしの推論です。滝沢さんが指摘するように「慰めかねつ」和歌が都人の歌だとすると、やはり山と月の組み合わせで詠み百人一首にも選ばれた阿倍仲麻呂の歌「天(あま)の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」が気になるのです。思い切って想像を膨らませますが、「慰めかねつ」和歌の作者は仲麻呂のこの歌を知っていたのではないでしょうか。
仲麻呂のこの歌は遣唐使として中国に渡り、皇帝(玄宗)の側近官僚となったため帰国を許されず、幼い時に見た奈良の都の三笠山の美しい月についての感慨を詠んだものです。詠んだのは奈良時代の8世紀半ば、それから約150年後の平安時代になって紀貫之らが仲麻呂にこんなすばらしい歌があるとして古今和歌集に載せました。
似ている「慰めかねつ」和歌
仲麻呂が歌作したのはちょうど万葉集が成立するころなので、万葉集には間に合わなかったと考えられます。とはいえ、仲麻呂は日本と当時の超大国の唐との偉大な架け橋となっていた秀才ですから、万葉集成立後、奈良の都を代表する三笠山をてらす月を詠んだすばらしい歌が仲麻呂にあるということが、都の貴族の間で話題になっていたのではないでしょうか。この歌はシンプルで分かりやすく、「慰めかねつ」和歌の分かりやすさとよく似ています。
「慰めかねつ」和歌の作者は、訪れたさらしなの里の月の美しさを歌にするときに、仲麻呂の歌を思い浮かべたのではないでしょうか。こじつけかもしれません。ただ仲麻呂の歌は 古今和歌集 の「覉旅歌」という旅をモチーフにした巻九の最初に置かれています。そのぐらい重要な歌だったので多くの人の知るところとなっていたのではないでしょうか。「慰めかねつ」和歌の作者は都の旅人だという滝沢さんのお考えに触発されて妄想しました。
画像は仲麻呂の「天の原」の和歌をテーマに作られた絵本。作者は松尾芭蕉の「更科紀行」を漫画や絵本にしたすずき大和さんです。