アメリカ大陸がコロンブスによって発見されたように、さらしなの里は都の人たちによって発見されました。その発見によって価値が広く知られていったのですが、その推進役を担ったのが、10世紀初め、天皇の命令で編まれた古今和歌集の「わが心慰めかねつさらしなや姨捨山にてる月をみて」という和歌です。しかし、この和歌の成り立ちについての史料は、古今和歌集に載っているということ以外になく、推測するしかありません。(画像をクリックすると、1枚で印刷できるPDFが現れます)
東国経営
そうした中で、その成り立ちや背景に迫ったのが、信州大学名誉教授(国文学)の滝沢貞夫さん(2016年死去)で、著書「しなの文学夜話(上)」でお書きになっている内容を更級への旅31号で紹介しました。「慰めかねつ」の歌は古今和歌集の成立前にはできていたはずなので、詠まれたのは9世紀の800年代、朝廷が東北地方の蝦夷らを支配下に治める「東国経営」によってさらしなの情報が都に伝わったことが背景にあるというものです。
説得力を感じたのでもっとイメージを具体的にしたいと思い、古今集和歌集より約150年前にできた日本最初の歌集「万葉集」やその解説書などに手がかりを見つけようとしてきました。万葉集にはさらしなや姨捨を詠んだ歌はないのですが、31号から約9年。万葉集と古今和歌集のそれぞれの編者が東国経営に大きくかかわった武門一族の子孫だということも「さらしなの発見」に関係していると思うようになりました。
都に運ばれたさらしなの情報
万葉集の編者は大伴家持(おおとものやかもち)。新元号「令和」の出典元となった九州太宰府での「梅花の宴」を主宰した大伴旅人の息子です。大伴氏は7世紀から8世紀にかけ、天皇を中心とする国家を作り上げていくときに大きな貢献をした一族で、奈良時代はその支配を全国に広げるため今の東北地方に当たる陸奥国に軍事責任者としても赴任していました。都から東北へのルートは大きく信濃国を通る「東山道」と太平洋側の「東海道」を通る二つがあったのですが、東山道は現在の松本付近で日本海側にいたる連絡道が分岐し、その連絡道がさらしなの里を通っていました。この連絡道は北陸地方の国々から軍事物資や情報を運ぶための重要なルートで、行き来する人が増え、大伴家には信濃の国の月の美しいさらしなの里の情報もだんだんと蓄積されていったのではないでしょうか。
万葉集にさらしなに関係がある人の歌
そのことの裏付けにもなるエピソードが滝沢さんの「しなの文学夜話(上)」に載っています。家持は当時、軍事を司る役所の官人で、九州防衛の任を負う防人として都周辺に来ていた信濃を含む東国出身者に歌を作らせ、それを万葉集の巻20に収載しているのですが、その一首にさらしなの里に関係がある人の歌があります。
大君の命(みこと)かしこみ青雲のとのびく山を越よて来ぬかも (歌番号4403)
作者は「小長谷部笠麻呂」。滝沢さんによると、「青雲」は、人との別離の場でその哀愁を象徴する景物として使われるので、笠麻呂はいくつもの山を越えて都にやって来て、雲を見つめながら別れた家族のことを悲しく思い出していると解釈できるそうです。作者の姓の「小長谷部」はさらしなの里を治めていたとされる古代の一族です。笠磨呂からさらしなの里の情報が家持に渡ったかもしれません。小長谷部は「おはせべ」と読みます。「おばすて」という音の響きを連想しやすいです。
情報の集積が歌に結晶
姨捨山の異名のある冠着山の姿は優美なので、さらしなの里で「慰めかねつ」の和歌が詠まれそうな気配がなんとなく漂い始めた気がしないでしょうか。古今和歌集でこの歌については「よみ人知らず」と書かれ作者は不明ですが、大伴家にもたらされたこうした情報も土台になって、都人があるとき「慰めかねつ」の歌を詠んだと考えられないでしょうか。詠み人は歌の素養があったさらしなの里人であった可能性もありますが、いずれにしろ万葉集成立後の8世紀後半から9世紀にかけて集積されたさらしなの情報が歌に結晶したと考えていいと思います。
この歌はどこかに書きつけられていたのでしょう。古今和歌集編者の紀貫之(きのつらゆき)は編纂方針として「万葉集に載っていない歌を集めた」とまえがきに書いています。万葉集編纂者の家持の一族にもあたって探していたら、この歌があったので採用した可能性を想像しました。紀貫之の紀氏もやはり蝦夷対策で活躍した武門の一族だったので、さらしなの里を含む東国への関心が高く、さらしなの月の美しさは情報として持っていたのではないでしょうか。紀氏の一族に「慰めかねつ」の和歌が伝わっていて、それで古今和歌集に取り入れた可能性もあります。
以上の考えは、状況証拠を積み重ねたもので、全く見当違いである可能性があります。歴史の事実を一つの観点をもって組み合わせると、そんな解釈やストーリーができます。
あこがれを増幅させ紀貫之の歌
一つ確かなことがあります。 「慰めかねつ」の和歌は、古今和歌集編纂の後、「男もすなる」で始まる「土佐日記」を書いた紀貫之にとっても触発力があったらしく、彼にもさらしなの月の特別感を詠んだ次の歌があるのです。
月影はあかず見るともさらしなの山のふもとに長居すな君
信濃に行く人に贈った歌で、さらしなの美しい月にまどわされて居ついてしまうことのないようにと詠んでいます。「慰めかねつ」の歌を思い起こさせる紀貫之のこの歌によって、さらしなの里の月の美しさはいっそう都人のあこがれの対象になっていったのだと思います。
****************************
主な参考文献
「日本古代の交通・交流・情報Ⅰ 制度と実態」(編者:舘野和己・出田和久、吉川弘文館)
「大伴家持 氏族の『伝統』を背負う貴公子の苦悩」(鐘江宏之、山川出版社)
「『古今和歌集』の創造力」(鈴木宏子、NHKブックス)
「紀貫之」(大岡信、筑摩書房)