都人が「さらしな」という地名に抱く「白」のイメージについて更級への旅3号で書きました。佐良志奈神社(千曲市若宮、旧更級村)の社標の側面に「月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里」という、さらしなの里を真っ白なイメージで詠んだ和歌が刻まれていることを紹介したものです。3号を書いたのが2004年、この和歌の作者がだれか気になっていたのですが、ネット情報が増え、関連文献も入手でき、江戸末期を生きた柳原則子(やなぎわらのりこ)という方だったことが分かってきました。画像をクリックすると、A3にレイアウトしたものが現れます。
社標和歌の作者は「正親町三条実愛卿(おうぎまちさんじょうさねなるきょう)姑、柳原大夫人(やなぎわらたいふじん)」と佐良志奈神社には伝わっていました。正親町三条実愛さんは、江戸末期、外国の侵略から日本を守ろうと王政復古に尽力した天皇にとても近い公家です。その実愛さんの「姑」が作ったというので、現代の「姑」の意味である妻の母としての柳原大夫人を探し出そうとしたのですが、実愛さんの妻の母に柳原姓の人は見つからないのです。いくつもの辞典で姑の意味を当たっていたら「おば、父の姉妹」の意味もあることがわかりました。実愛さんの「父の姉妹」つまりおばさんには「則子」さんがおり、その則子さんが柳原家に嫁いでいたことがわかりました。「則子」と書かずに「柳原大夫人」と佐良志奈神社が伝えたのは、それだけ高貴な身分の人だったからではないかと推測します。辞書によれば「大夫人」は天子の母親の意味があります。
柳原家は和歌をはじめ文筆の優れた家として知られていますが、残念ながら則子さんに関する史資料はまだ見つかりません。唯一の手がかりは柳原家の家系図。それによると則子さんは、近年ではNHK連続ドラマ「花子とアン」で仲間由紀恵さんが演じた柳原白蓮(1885~1967)の曾祖母に当たる女性です。白蓮は情熱的な歌風で知られ、平和運動にも尽力しました。則子さんのおばさんの「柳原安子」さん(1784~1867)も実力のある歌人で、明治時代に編まれた「続日本歌学全書 桂園門下家集」に安子さんの歌約80首が掲載され、その存在と歌が世の中に知られました。「近世女流文人伝」(倉田範治著、明治書院)では、安子さんの歌の特長について「桂園派のなだらかな長所だけを伝えて、その平弱におちいる弊から救われ、しかも、女らしい優美さと個性的な情熱をあわせもっている」と評価しています。桂園派は香川景樹という歌人が率いた和歌の流派。平安時代の古今和歌集を重んじ「調べの説」を唱え、清新平明に歌うことを主張しました。明治までは歌壇の主要勢力で維新後は、現在の年初の皇室行事「歌会始」のもととなる宮内省御歌所の創設にも関わりました。
「平明で調べを大事にした流派」だったと知ると、「月のみか露霜しぐれ雪までにさらしさらせるさらしなの里」という佐良志奈神社の社標和歌も、意味以上に調べが美しく楽しくなります。
社標に刻む和歌を作ってもらうよう実愛さんに働きかけたのは、江戸末期から明治を生きた宮司の豊城直友さんで、直友さんは政情不安の京都に、天皇が住む御所の警護を務めるため上京し、その時に得た知遇で実愛さんに会うことができたと伝わっています。その実愛さんが歌の名家に嫁いで高い歌の素養があるおばさんの則子さんに頼んで、さらしなにまつわる歌を作ってもらったことになります。佐良志奈神社にはそれを証明する文書が伝わっていました。左上の写真です。歌が料紙に7行にわたって墨で書かれ、右下の2文字が作者の名前。「子」の上の字は「則」の崩し字です。この解読は難しかったのですが、古文書研究家の北村主計さん(千曲市羽尾、旧更級村)が調べてくれました。
右の写真が佐良志奈神社の社標です。側面に「月のみか」の和歌が刻まれていますが、この字は幕末の松代藩の開明派、佐久間象山が書いたものです。直友さんは象山と交友がありました(郷土史家大橋静雄さんの「冠着山を詠んだ佐久間象山の歌、漢詩」参照)。象山は直友さんが持ち帰った則子さんの歌の書付をもとに自分の書体で書き起こしたのです。なんとも優美でおおらか、ダイナミックです。象山の人柄も感じます。
佐良志奈神社の社標は、明治の市町村合併で「更級村」と名乗ることができる大きな根拠となりました。さらしなの里がある千曲市にとって一級の文化財です。2018年には永久保存するため屋根がかけられました(左下写真)。
則子さんのおばさんの「安子」さんの歌集を読んでいたら社標和歌と同じ「露霜」が詠みこまれた次の歌がありました。
うづもるる身は露霜のふる塚も春だに花の雪に隠れむ
我が身は露や霜がかぶった古い墓のように春でも桜の花に埋もれて人の目には入らないだろうという意味だと思います。桜の花を白い雪に見立てており、この歌にも白の美意識が濃厚です。安子さんは若くして夫を亡くしました。一人で人生に幕を引くときの感慨が込められています。夫を亡くし晩年を一人で過ごした平安時代の「更級日記」作者菅原孝標女を思い起こしました。