呼び名は大事だと思う。
太宰治が心中して亡くなった6月19日が近づくと、毎年、桜桃忌(おうとうき)という言葉がよくメディアに登場する。これは亡くなる直前に書いた、さくらんぼの別名である「桜桃」という短編小説にちなんだ命日の呼び名だが、桜桃という果実が太宰の生きざま、作風を象徴するものになっている。
「桜桃」では、家庭を大事にしたくてもできない男が妻に責められ、家族をふびんに思うのだけれど、大事にできない性(さが)をつづっている。そして、飲み屋で出された桜桃(さくらんぼ)を口に運び、持ち帰れば子どもたちが喜ぶだろうと思いながらも、まずそうに一つずつ食べては種をはいている。「親の方が子どもより弱いのだ」とそんな自分を正当化するというか、哲学めいた言葉を男ははく。太宰は弱い人間、だめな夫を自覚し、それを多くの人が読みたいと思う作品にする天才だった。
さくらんぼは、甘くて酸っぱくて、そしてほのかな苦みもある。小粒でかれん、つややかで、口に放りこんで、種をはきだす楽しさの一方で、はきだしたときは、はかなさも感じる。さくらんぼ家庭にたとえれば、普通の庶民の家庭だが、そんな家庭の幸せの裏側には苦しみという苦みがあるという感じだろうか。太宰は人気作家になっても入ってくるお金を飲み代に使い、家庭に回しませんでした。家庭の幸せを作家として否定する生きざを太宰は志向していたそうですが、それは作家としての矜持(きょうじ)であり、実はあこがれていたことの裏返しでもあったと思う。
太宰の命日の呼び名が、たとえば「メロス忌」だったら、今ほどに毎年の命日の時期、太宰がいろいろに語られることはなかった気がする。
話は変わる。世界三大映画祭の一つカンヌ国際映画祭でグランプリをとった「桜桃の味」(アッバス・キアロスタミ監督)というイラン映画がある。最初に見たのは映画ができた21年前のことで、当時は太宰の「桜桃」は読んだことがなく、「桜桃忌」のこともよく知らなかったので、まったく太宰には思いがいたらなかったが、この映画も自殺をしようとする男が主人公の物語だった。採石場とか赤茶けた土の風景の中を、自殺を手伝ってくれる人を車でさがすシーンが長くつづく。男がほんとう自殺をしたのかやめたのか、結末は描かれていないが、終盤に「桜桃の味を楽しめなくなっていいのか」という、自殺をやめさせようとする老人の言葉がさりげなくでてくる。映画のタイトルはこのせりふからとったのはあきらかだ。
調べたら、桜桃はイラン付近が原産で、世界に広まったそうだ。桜桃によせるイラン人の伝統的な思いがどのくらい強いのかたしかなことはわからないが、太宰の「桜桃」を読んで、実はこの「桜桃の味」という映画のタイトルにも、「桜桃忌」という太宰の命日に名前をつけた人たちと同じような思いがこめられているのではないかと想像した。人生は甘く酸っぱく苦くはかないもの…。砂漠気候のイランについて、「桜桃」というタイトル(呼び名)を映画につけることによって、みずみずしいとまではいかないが、人生の色どり豊かな人たちの国というイメージを持たせるのに大事な役割を果たしていると思う。
太宰治が亡くなって今年(2018)で70年。