さらしなの里の美しさが都に知られていくとき、千曲川の果たした役割はとても大きい。里に現れる月の姿や上空を渡る月の光を受け止め、拡散させ、大きな光の空間を作り上げたのだ。
姨捨文学研究の第一人者、矢羽勝幸さんの「姨捨山の文学」の中には、それだからできたと考えられる江戸時代の俳句が紹介されている。
更科の月をさらすや千曲川
(作・美濃大垣の僧 燕説)
享保6年(1721)の中秋、長楽寺にやってきて、鏡台山(きょうだいさん)方面から上った月や千曲川を一望して詠んだとみられる。「更科」の後に「さらすや」と続くので、いっそう清らかな月の光で里が満ちている様子が目に浮かぶ。
矢羽さんの本ではほかにも、さらしなの千曲川の情景のすごさを強調する江戸時代の言葉が載っている。
(千曲川は)月満(つきみち)て銀蛇(ぎんへび)の踊るに似たり
これは長野県内の地名の成り立ちなどをまとめた「信濃地名考」(1855年出版)という本を作った吉沢鶏山の言葉。さらしなの里の名所を紹介する記述の中で、千曲川の流れを銀色の蛇にたとえている。日差しや月光を浴びる千曲川は確かに銀色の流れに見えることがあるが、銀蛇が踊っているように見えるというたとえは、堤防がまだない時代の荒ぶる千曲川の迫力や生々しさを感じさせる。
さらしなの里のすごみについてのこれら二つの俳句や記述を、読んだり聞いたりした人が想像をふくらませ、行ってみたいと思い、行ってみたらその通りだったと感じた。感動は人に伝えたくなるので、結果、口コミでさらしなの里の美しさが広まっていったのだと思う。
(写真は、千曲市大池の上方から日の出のときに撮影したさらしなの里。手前を流れるのが千曲川。朝日の右側に鏡台山)