阿弥陀堂の思い出(千曲市羽尾)

 以下は千曲市羽尾4区の北村主計さんが、さらしなの里友の会だより23号(2010年秋)に寄せた文章。映画にもなった小説「阿弥陀堂だより」の世界は、冠着山のふもとの羽尾にもありました。写真は、昭和50年ごろ、堂守の家族が住んでいたころの阿弥陀堂(北村さん提供)

阿弥陀堂40年代 平安貴族は、生きているうちは薬師如来の救いを求め、死後は阿弥陀の浄土への往生を願ったという。羽尾には薬師堂と阿弥陀堂の双方があり、それぞれ古い歴史がある。阿弥陀堂に限って言えば、鎌倉時代には存在していたということだが、確かな文献はまだ見たことがない。
 映画にもなった小説「阿弥陀堂だより」(南木佳士作)の一節に、「古い家で竃(かまど)やお風呂に薪をくべているとき、その炎を見ていると何となく安心できたのよね。新しい暖炉の炎は温かみに欠けて…」というくだりがある。今は無住で古びた阿弥陀堂であるが、お堂の姿を見ると、郷愁と安堵を感じるのは、まさに「竃や風呂の薪の炎」と同じ温かみがあるからではないだろうか。
 明治維新の廃仏毀釈で堂守は還俗し、現在は本田三組共有の財産として管理されている。戦前はここで、この地に嫁いだ女性たちが土地の料理や習慣を覚え、愚痴を語り合う念仏会を開き、家長は互助目的の講組織として助け合い、青年層は共有田畑で稼ぎ、種々事業をしてきたという。武水別神社の大頭祭につきものの羽尾の軍楽隊もその一つであったと聞く。このような住民の拠り所は当然のことながら子どもたちにとっても遊びの場所であり、忙しい親の代わりに年長が年少者の面倒をみる姿が終戦後のしばらくの間も見ることができた。
 自分もそんな中で育った一人である。肥やしを積んだリヤカーがたまに通る道路も、地蔵の横に生えていた杏の大木も遊び場であり道具であった。これをいつも見守ってくれたのが、堂守を兼ねた借住の家族であった。暑い日には阿弥陀様の前で昼寝をさせてもらった。こんな光景は今ではとても見ることのできない風景である。
 また、長老が「クラブ」と言う共同作業場を兼ね、縄を綯う影が夜遅くまで障子に映っていた。そしてお堂近くを流れる雄沢川の橋は大雨で流失を繰り返したが、阿弥陀堂のお祭りのときに立てた幟柱2本が住民の往来を確保する仮橋として活躍していた。地元の生活に密着し、存在してきた阿弥陀堂であるが、近年は年に一度の総会の集まりさえも、この建物でできないのが残念である。