篤志と犠牲で穿(うが)った冠着トンネル

 以下は、千曲市羽尾4区三島在住の郷土史家、大橋静雄さんの文章。中信と北信をつなぐ「冠着トンネル」がどのようにできたかを紹介するもの。写真も大橋さんの撮影。上の写真は、さらしな側のトンネル入り口に立つ建設工事犠牲者の供養碑。さらしなの里友の会だより18号=2008年春=から

 明治新道の碑 明治13年(1881)、後に更級村初代村長となる塚田雅丈(まさたけ)さんは御麓(みろく)区の上方、旧坂井村との境になる古峠の下、七十間に六尺四方のトンネルを開こうとした。奈良、平安時代、東山道の支道だった往古の往来を復活しようと発起人になった。羽尾村、坂井村の有力者の賛同を得て、楪葉地籍付近から工事を始めたが、トラブルが発生し頓挫した。
 明治27年「冠着山復権運動」の最中、鉄道の篠ノ井線が羽尾を通過することになり、雅丈さんは早速、郷嶺山付近に停車場を設置しようと近隣の村々の協力を得て、通信省へ嘆願書を提出した。しかし、地形と給水用の水の問題で、今の姨捨駅付近が選ばれた。
 とはいえ、北信と中南信を結ぶには冠着山の下をトンネルで結ぶのが一番のルートだ。長さは2656㍍。当時は日本で2番目に長く、明治29年より、5年の歳月をかけて完成した。
 トンネルは冠着を挟んで双方から穿たれたが、資材は屋代から運ばれ、向こう側の麻績方面には猿ケ馬場峠、一本松峠経由で運ばれ、羽尾側は八幡村代経由で冠着トンネル口まで牛がトロッコを引き、資材を運んだ。そのとき利用されたのが、明治13年に塚田雅丈さんらが整備した道路で、その両側には官舎や飯場ができてにぎわった。
 千曲市代(だい)区から上る道は「牛道」と呼ばれ、これも雅丈さんが鉄道省の依頼で、在来道路の改良、新道開設でつくった道路。この道は後に、村人の要請で明治新道と名付けられた(左の写真は、羽尾4区に立つ明治新道建設の記念碑)。
 冠着トンネルの工事は困難で死者が多く出て、明徳寺の桑沢義覚和尚さんがトンネル近くの飯綱堂敷地内にねんごろに埋葬した。この地は墓石になる石が一つもなく、労務提供した星野工業の仲間たちは痛く悲しみ、トンネル入り口の斜面に供養碑を建て冥福を祈った。昭和50年(1975)に塚原弘真和尚さんは、明徳寺境内に御霊を移して「三界萬霊塔」の供養碑を建て130名の精霊を供養し、今も弘昭和尚によって供養が続けれている。寺を参拝の折りは、手を合わせてください。