冠着山を詠んだ佐久間象山の歌、漢詩

  以下は、千曲市羽尾四区三島在住の郷土史家、大橋静雄さんの文章。江戸幕末に活躍した松代藩武士、佐久間象山も冠着山に思い入れがあったことを示すエピソードを紹介しています。写真は、佐良志奈神社神主宅玄関前で今も香りを放つ金木犀(きんもくせい)。さらしなの里友の会だより25号=2011年秋=から

天姥山の漢詩にある金木犀の花samuneiru 今年(2011年)は佐久間象山の生誕200年。江戸幕末に西欧の科学技術を導入し国力の充実を訴えた松代藩士だが、その象山が仲秋の名月に、さらしなの里で詠んだ和歌がある。
 わがくにの冠着山に見る月ハカルホルニヤのあけぼのゝ空
 天保8年(1837)8月15日、象山27歳のとき「更科山」(冠着山のこと)に遊び月見の中でいくつも和歌と漢詩を詠んでいる。ただ、この和歌がそのときのものであるかは定かではない。詩の情景は親交のあった勝海舟よりアメリカの情勢を聞かされていたので、象山の念頭には常に世界への関心があった。この歌には、冠着山から世界をイメージし、いまにアメリカ大陸まで自分の手中に入れてしまうんだという、とてつもない大きな気持が現れている。
 同じような気宇壮大な漢詩を志賀高原・岩菅山に登ったときにも作っている―「東南夷島(いとう)を呑み 南天 富峰を揖(ゆう)す(前後省略)」。南に富士山がそびえるこの国で目を東に向ければ、アメリカ大陸(夷島)を呑み込んでしまうほど私は盛んであると、自信にあふれている。
 象山は江戸の神田「お玉が池」に象山書院を開いて西洋学などを教えていたが、帰藩命令が下ったので書院を閉鎖し、愛人二人「お蝶」「お菊」とともに松代に戻る。のち、門下生だった勝海舟の妹「お順」を正妻に迎える。ところが地元の松代にはさらに「お玉」という愛人がいたようだ。四人の女性に囲まれ、藩より借りた「お使者小屋」で暮らすようになった。このことで象山はいろいろ問題を抱えてしまう。
 そこで親交のあった佐良志奈神社神主の松田(豊城)直友氏に相談。「お蝶」は直友氏宅内に別邸を建築して暮らすことになる。秋のころ、象山は一番愛した「お蝶」に会うため、松代城下より白馬に乗り宮坂峠を越え千曲川で白馬を洗い、「お蝶」のもとに通った。
 直友氏はかつて象山が鉢で育てた金木犀の盆栽をもらい受け、その金木犀は庭に移し植えられて大きく育っていた。象山はその花の下で笛を執って「お蝶」と遊ぶ。そして中国淅江省にある「天姥山(てんぽさん)」を姨捨山(冠着山)に見立て漢詩を詠んだ。
 天姥山頭秋月明らかに(てんぽさんとうしゅうげつあきらかに)
 天姥山下秋水清し(てんぽさんかしゅうすいきよし)
 夜深くして好し(よるふかくしてよし)
 紫簫菅を執って(ししょうかんをとって)
 丹桂花陰に鳳声を学ばん(たんけいかいんにほうせいをまなばん)
 秋水は千曲川の流れ、丹桂は金木犀のこと。鳳声とは中国春秋時代、秦の君主の娘が縦笛の簫(しょう)を一度吹けば吉報の象徴である鳳凰が飛んで来て御殿の屋根に止まったという伝説にちなんだ言葉。この漢詩の意味は、月と千曲川がお互いに美しく見せ合うさらしなの里の光景を、金木犀の花の香りがさらに味わい深いものにしているという感じだ。文久4年(1864)、象山は京都で暗殺された。
 写真は象山から直友氏がもらい受けた金木犀の今の様子。佐良志奈神社神主宅玄関前で今も香りを放っている。