渡し守の弥曽さんー前冠着橋時代 

初代の冠着橋

 以下は、さらしなの里友の会元会長の大谷秀志さん(2005年死去)のエッセー。大谷さん著「鐵(くろがね)」から転載。初代の冠着橋ができる前、渡し船で千曲川の両岸にある千曲市更級地区と千本柳地区を行き来していた時代をふりかえったもの。感動的で、貴重な記録。写真は初代の吊り橋の冠着橋、更級地区の芝原から撮影。 

 春は雲雀が空高くさえずり
  ひところヒットした歌に「矢切の渡し」というのがあった。千葉県の田舎と都心をむすぶ接点を歌ったものであろうが、日本国中、川の流れのある所、舟で渡った昔のことで、人々の心に残る故郷の忘れがたき思い出が歌となり、曲となった渡し舟時代の物語であろう。
 さてこれから紹介する「冠着橋の今昔」は千曲川にまだ橋がなかったころのことで、私の幼少時代より第二次世界戦争以後までの半世紀近い昔のことである。 当時、川の東西すなわち、旧五加村と旧更級村を結ぶところに渡船場があった。その位置は今の冠着橋架橋点付近の左岸で、川の主流に沿った西側の土手下である。
  そこでふとまぶたを閉じて昔日を回想すれば、当時の千曲川原の風景と一艘の小舟が浮かんでくる。そこが「千本の船渡」と称し、川の両岸をむすぶ大動脈でもあった。
  往時は平常でも水量があり、水は澄んでいた。春は雲雀が空高くさえずり、ネコヤナギが芽を吹き茂り、春から夏にかけては月見草が咲き乱れ、夏はカジカが川の瀬に逆らうようにしげくなきうたった。 秋は雁の飛ぶ姿が月の夜にうつり、冬は渡り鳥が来たり遊ぶという、それは美しい自然の風景であった。そんな自然の豊かなころ、両岸を行き交う人々の中で、特に五加村では冠着の入会地に薪をとるため、渡し船を利用し、また冠婚葬祭や諸処の用向きで往来した。人々の足場となっただけでなく、心と心をつなぐ渡し場でもあった。
 銅鑼を鳴らして船出
  そんなころ、一人の渡し守(わたしもり)、すなわち船番がいた。人々は昔「やそさん」と呼んでいたが、ほんとうの名前は分からなかった。 姓は「森」で名は弥曽(惣)兵衛、あるいは弥兵衛かもしれないが、時が過ぎた今日、知る人も少なく、仮に「弥曽さん」としておく。体は小柄な方で、小才の効いた人物のようであった。
 いつごろから渡船場に住むようになったかはさだかではないが、昭和十年ごろか、その前後にはすでに土堤の上に麦わらの小屋を作り、そこをねぐら同様にして雨風をしのぎ、人々に奉仕していたことを思い出させる。
  もちろん、弥曽さん以前にも前任者がいたようだが、そのころは常勤ではなく、舟が出る時間を限定して、出船の際は、どら銅鑼を鳴らして、音によって告げたようであった。しかし、弥曽さんは両岸の人々からの要望もあってか定住するようになった。
  なお、弥曽さんは船番となる以前は、須坂地区の稲葉鷹之助さんという人の家を借り、不在となった稲葉さん(東京方面へ離郷)の家の留守番かたがた泊まり宿としていた。そのころは農家の手伝いをして生計を立てていたとか、そんなことで須坂の人々とは親しみも深かったということである。
  弥曽さんには妻女があった。 名は「やよいさん」と言ったが、この人の生国は奥州仙台の出身だとのことで、好人物であったという。
  明治三十三年(一九〇〇)、冠着トンネル(国鉄篠ノ井線姨捨―冠着駅間二六五六㍍)が開通したが、冠着トンネルが起工するや、羽尾本田(旧更級村)付近は、人足の集合地としてにぎわった。そのころ、仙台より来た妻女のやよいさんは弥曽さんと知り合い、一緒に世帯を持つようになったということである。 今は廃屋の跡地を示す地点は、本田三組(源徳、日向、大門)の日向の地積であるとのことで、したがって、弥曽さんの生地は日向であり、そこが生まれ在所であることは確かなようである。
 芸術品の薪
 さて五加村の人々は、毎年、たきぎ薪をとるため、冠着山に登ることを日常としていた。薪はみな背負子(しょいこ)に荷を束ね、肩に背負って千曲川を渡り、家に持ち運び帰るという仕事を繰り返していた。今考えれば大変な重労働で、骨の折れる仕事であった昔の生活の苦労がしのばれる。
 五加村の人のことを更級では「せんぼ千本の人」と呼んでいたが、背負子に積まれた薪は実に見事に束ねられたので、その荷のことを芸術品とまで賞したほどだった。
  渡船場のことを「千本の船渡」と言われ伝えられた由来は、日常、五加村の人々を主体としたところから、生まれた言葉ではなかったか。生活を賭けた唯一の船場でもあり、三三五五、背負子を背にした人々の姿が今日も目に浮かぶような気がしてくる。
 
どやされた夏河童  
 弥曽さんの日々が続くなかで、色あせて朽ち気味の小型船が、やや中型の立派な新品の舟に取り替えられたことの記憶を思い出すことができる。 舟はいつごろ、だれが造りかえてやったかは判然しないが、大方、五加村の人々の好意と思われる。 木の香も新しい舟が誕生して乗り心地のよさを感じたことを思い出す。しかし、夏河童どもが水遊びの最中、上流から泳いで来て船尾につかまると、弥曽さんに大声でどやされて逃げる姿もあった。
 ある日のこと、弥曽さんの小屋から出火して、小屋は丸焼けになったことがあった。川風にあおられて火は、たちまちのうちに燃え上がり、全焼した。近くの村人たちは早速にかけつけけたが、後の祭りだったということであった。 その際、婦人たち、特に須坂区では炊き出しまでして、消防士や応援の労をねぎらったと伝えられている。
  その後の顛末については知ることもできず、時も過ぎたが、弥曽さんの死因については次ぎのようなことがあったということである。
 
泳いで渡るほかなく
  ある日のこと、左岸西(旧更級村)側から船客が来た。舟を出そうとしたが、折り悪く、そのときは対岸の中洲に放置されたままの孤船であった。  多分、だれかが弥曽さんの不在中、無断で船を出して渡ったままにしてあったらしく、船は船場になかった。
  そこでこんな場合、対岸から来る人を待ってその人に頼んで漕いで来てもらうために、時間をかけて人を待つほかに手はなかった。 船はワイヤーロープにつながれており、張り縄状のワイヤーを手で繰り込む仕組みになっており、乗り捨てられた船を手元にもどすには川を泳いで渡るよりほか、まったく方法はなかった。
  弥曽さんは水辺に住みながら、泳ぎがまったくできない人であったようだ。時間は過ぎるし、待つ人も来ず、困った弥曽さんはいたし方なく、自らワイヤーロープをつかみ素手にてロープにぶら下がって渡り始めた。 当時の川の様子を考えると、左岸から直ちに水面に接したところに船がある。
  そして川の流れの向こう側に中洲がある。中洲に上がると、川原は一面大小の丸い石畳を敷いたようなところで、河川敷には現在のような立木などは一本もない石の原である。 そこまで五十―六十㍍くらいか。石畳には人々の踏んだ道筋があり、歩いて右岸の堤に登り切ることができる。
  さて、ワイヤーロープに身を託した弥曽さんは力いっぱい手で綱渡りをはじめたが、途中で力つき、そのまま水面に落下してしまった。
 
責任感と侠気心
  川の左岸は深いが、中洲に近づくと、次第に浅くなり、砂地になっていたはずだが、そのまま水死人となってしまったということである。 弥曽さんは責任感があり、かつ侠気心のところもあったとされたが、持ち前の短気が手伝ってか、渡し守としての弥曽さんの最期は集結したということである。
  時に昭和二十三、四年ころであり、その後のことを語ってくれる人はだれもいない。なお妻女は昭和二十六年ごろ、死去したということである。