以下は2007年に亡くなった千曲市羽尾の郷土史家、塚田哲男さんの文章。さらしなの里友の会だより創刊号=1999年秋=から。絵は冠着山のふもとの地区でつくる財産区が受け継いできた地図。「御天井」の呼び名が記されています。
更級小学校校歌の一番は「冠着山の峯高く千曲の川の水清し」とうたい、更級の里の特徴は、冠着山と千曲川とであることを示している。
この更級の里を包んでいる冠着山はまことに不思議な山である。その第一は、多様な名前をもっていることだ。
人間でいえば、本名があり、通称や雅号があったり、あだ名でも呼ばれるがごときである。
今から千年くらい前の「今昔物語集」は、この山を姨捨伝説の山として紹介し、「これより姨捨山という。それまでは冠山と言っていた」と書いている。冠山とは山の形が冠に似ていることによる。
ついで冠着山という呼び名。
江戸時代の寛文6(1666)年書き上げの寛文水帳(仙石区所有)の末尾に、「籾三斗五升 冠着山借用の事」とあり、近世初期にはこの名が使われていたことが分かる。
さらにまたの名を更級山という。
これは平安時代、麻績の方面も更級郡に含まれていたので、郡の中央であり、またきわだって見事な山の姿のため、更級郡の象徴としてそう呼ばれたものだ。
一方、地元の羽尾・仙石では、前々から「ボウジョ」と呼ばれていた。
これは「坊城」か「帽状」か「帽著」と書くのか判断に苦しむところだが、いまの「坊城平(ぼうじょうだいら)」の呼び名の元である。ちなみに元禄年間(1700年ごろ)の絵図面では、「ホ条平」と書かれ、明治20年の冠着山絵図面は「坊所平」と記され興味は尽きない。
さらに山頂を指して「御天井」と書き、「オテンジョウ」または「オテンジョク」と呼ぶ。この名は、天に最も近い所として崇めたてまつった尊称で、この山の神秘な信仰を伝えている言葉である。
冠着山はもったいないくらいたくさんの称号をもっている。更級の里の人々のこの山に寄せる愛情と畏敬の思いが、ここに残されているのである。