以下は、冠着橋名付け親の小松康孝さんが2002年にお書きになった文章です。「永縁の冠着橋」という本を作るとき、小松さんにどうして話の名前を冠着橋にしたかったのか書いてほしいとお願いしました。本は千曲市の戸倉図書館にあります。ここをクリックすると、PDF版で読むこともできます。
満州鉄道勤務、シベリアでの抑留生活を終え昭和二十二年(一九四七)十月二十一日、わがふるさと、姨捨駅に着いた。
駅を降りて一人でとぼとぼ歩き、久しぶりに見上げる冠着山。更級の里は戦火にはさらされていなかった。道路に腰をおろし、じっと眺めていた。緑に包まれ、雄大な姿で立っている、ふるさとを離れても一日も忘れることなく愛していた冠着山である。
「人生はこれからだ、頑張れ」と励ましてくれているように思えた。
私は二十二歳。それから十年後の昭和三十三年、千曲川をまたぎ千本柳と更級をつなぐ橋の名前を町が公募していた。私は締め切り日、わら半紙に墨で「冠着橋」と書き役場に駈け込んだ。
父母の手伝い、校歌とともに
私の家は江戸・享保の時代より、羽尾、仙石のきもいり肝煎、庄屋、名主、頭立として百年間、松代藩に奉仕していた。しかし、祖父は酒飲みで田畑、山も売ってしまった。宅地だけは兄弟が守っていてくれて、私たちは物置小屋を住宅に改造して住んでいた。
父・小松清光は毎日、近所の日雇いとして田畑の仕事に働いた。そして母よしとともに、私たち五人の兄妹を貧しさの中にも成長させてくれた。 毎日、冠着山の四季に変わる姿を眺め、昭和八年四月一日、更級小学校に入学。「冠着山の峯高く…」と校歌を何時も歌いながら、養蚕の畑に入って草刈り、秋は薪取りなどと父母を手伝い、一生懸命働いた。
昭和十六年(一九四一)三月二十日、更級小高等科を卒業。国内の就職をふりきって、赤い夕日が地平線の彼方に沈む二条の鉄路、満州鉄道の社員試験に合格した。四カ月、国鉄・長野検車区で養成され八月、大阪港から大連港へと旅立った。長男の私が満鉄で働いて金をためて家を建て父母たちを呼んで楽しい生活をさせるからと、希望を持ち、列車の検査に働いた。
同年十二月八日、大東亜戦争開戦、二十年ごろには敗戦の色も濃く、満州の空にもB29爆撃機が現れ、爆弾を落としていった。 働きながら、何時も、故郷の冠着山の姿が頭に浮かび、更級の里に働いている姉妹、父母の姿が思い出されていた。
昭和二十年二月、徴兵検査に合格、五月、ソ満国境の緩西の五五六部隊の自動車隊に入隊した。毎日、自動車の練習どころか、ムウリン市での陣地構築、駅のホームでの材木、食料品、爆薬、セメントおろし。若い体は汗はびっしょり、毎日真っ黒によごれ、日本が勝つまではと働いた。
シベリアで捕虜、死んでいく友
同年八月八日、ソ連軍が満州侵入、空と陸との戦場となった。牡丹江市まで後退したが、部隊はばらばらになり、友の幾人かは戦死した。八月二十二日、東京城市で武装解除、敗戦国の捕虜となってしまった。
満州の荒野、鉄線でかこまれた家もない露天地での約一カ月の俘虜生活ののち、九月二十一日夜の十時出発、貨物列車にゆられながら、シベリアの奥地コムソモリスク市に着いた。シベリア平原は雪で真っ白だった。寒いこの地で何年、生活するのか、悲しみの涙がとめどなく流れてくるのだった。
草原の中にある馬小屋のような第一収容所、ロシア兵に監視される。まわりは板べいで囲まれていて逃亡はできないようになっている。朝食後、住宅団地の建設現場へ。土が凍っていてなかなか掘れない。働かざる者は食べるべからず。給食も一級から四級まである。休日はない。零下三十度をこす寒の中、働かねばならない。わら布団にくるまって眠る夜、祖国にいつ帰れるか、冠着山も二度と見ることができないのか、朝起きれば、寒さと栄養失調で三人五人と死んでいく。
苦しみも悲しみも
昭和二十二年、十月十五日、二カ年の生死の境をさまよった俘虜生活、ハラショラボター(よく働いたから)にも帰国命令が出た。
「冠着山の麓、更級の里に帰れるのだ」。貨物列車にゆられながら、雪のシベリア平野を走り、ナホトカ港についた。 満鉄、シベリア、二十二歳の人生は苦しみも悲しみも乗り越えて生き抜いてきた。
引き上げ船、信洋丸は玄海灘の荒波を乗り越えて七年ぶりの祖国、舞鶴港に着いた。舞鶴港から列車にのり、空襲で焼けた家々を眺めなら姨捨駅に着いたのだった。 更級小学校の庭の隅に植えられた桜の木、昭和十五年(一九四〇)、紀元二千六百年の記念樹として大きくなっている学びの校舎を眺め家に帰った。 昔と変わりないわが家。 母は「よく帰ってきた」となぐさめてくれた。 父は怒っているようだった。
「父ちゃん、ごめんね。俺、丈夫な体があるから、これから働くよ。そして祖先に恥じない家を新築、再興するよ」
そして当時襲ったキティ台風で流された千曲川の堤防工事の仕事に出て、金、金がほしいために働いたのだった。
必ず紹介した冠着
文章を書くのが好きだった。更級小学校高等科卒業のとき、関西の修学旅行があったが、戦時下で中止になり、田沢・松本方面への徒歩での鍛錬旅行となった。田沢温泉に一泊、松本に出たときの模様を作文に書き、当時の柳沢巽先生(東部町禰津)に十点を通信簿にもらった。日記も小学校三年からつけた。復員後は、仕事を終えて家に帰り、夕食前に必ずつけていた。
本も読みたかった。 長野市に遊びに行ったとき、本屋でみつけたのが、弁論誌であった。青年団の弁論大会には何回も出場した。
弁論の編集者で乙部泉三郎先生(故人・元長野図書館長)宅を訪れ、語り合い、全国五百名の友との文通した。そして「若人」「橋誌」の月刊の同人誌が発刊された。「橋誌」の「橋」はお互いに橋を渡し仲良くなるという意味で名づけられたものだ。 私は毎月投稿、農村問題を書き、そこには必ず冠着山の時期折々の風景を紹介していた。
昭和二十九年には、仙石青年団長、更級村連合青年団長、更級郡連合青年団社会部長として活躍した。 更級村連合青年団では、戸倉町だけとの合併に反対、同じ更級郡の上山田も加えた大同合併に向け運動した。郡青年団においては団員一人一人に世論調査も施した。
墓誌を建立、父母への誓い果たす
昭和三十六年(一九六一)六月から屋代木材に勤務した。自動車の免許は仕事が忙しくてとれなかった。私は自転車通勤だった。 須坂の堤防を通り、板ではりめぐらされた平和橋を渡る。そして更埴市の中村区を抜け屋代木材へと通勤した。
帰りは冠着橋を通り、必ず橋の上で一休み。冠着山を眺め、家に帰っていた。 雨の日も、風の日も、雪の日も一日も休まず、更級のリンゴの共選所で働く妻久江とともに働いたのだった。そして昭和四十七年三月二十一日、先祖代々の墓を建立、同四十八年三月母屋を新築した。 五十四年三月には、先祖代々の墓誌、三十六名を刻んで建立した。必ず家を再興してみせるとの父母への誓いをかなえることができた。 草場の陰で喜んでいてくれるだろう。二人の子供たちも安心して独立できると思った。
いにしえの先祖偲びて幾年か墓誌をたててん冠着の里
昭和六十年四月一日より長野工業勤務。平成六年(一九九四)十二月退職、四十年間の勤めが終わった。
月日の立つのは早いものである。 私もこの十月で七十六歳の誕生日を迎えた。 子供二人も独立して務めている。 孫娘のひかりも、小学校三年生、元気で学校にいっている。 世の中は景気が悪いせいか、果物の安値で毎年、リンゴの木も切り倒されていく。
農業に働いているが、農村も高齢化し、農業では生活ができない。後継者もなく、将来が案じられるようになった。
しかし、自分で育て、秋の収穫をかみしめるとき、祖先が残してくれた土地、月の名所冠着山、更級の里、古記によまれた土地は守っていかなければならないのだ。
久しぶりに堤防に立ち、橋を渡り、千曲川を眺め一休み。更級の里、冠着山を眺めた。 ぼこ抱き岩、以前は二つあったが、松代地震でくずれ落ちてしまった。
雄大な冠着山、更級の里にとって大切な護り山である。四十四年前、役場の橋名募集がもう締め切られると知って役場に飛び込んだときのことを思い出した。
橋の上で眺める冠着山。これが一番よい場所であるから、冠着橋と名付けたのである。