更旅241・黒彦と長谷寺の白助はさらしなの兄弟?

更旅・黒彦と白助samuneiru

 さらしなの里である長野県千曲市に「黒彦」という地区があります。黒彦区は1970年代、千曲川の西側沿いの農地を宅地開発してできた地域です。地区名はかつて千曲川の中洲にあった幻の水上都市・黒彦の名前にちなんでいます。昨年、黒彦長生会会長の西澤学さんから「さらしなと黒彦について話を」と依頼があり、調べました。根拠にしたのは戸倉町誌です。読んでいるうちに黒彦という地名は、当地で始まった「さらしなプロジェクト」に大変重要なものではないかと思うようになりました。長野市塩崎の長谷寺(左上の写真、撮影・岡澤慶澄住職)を興した白助(しらすけ、寺の写真の右上)との関係が濃厚に感じられ、当地の山が姨捨山と異名を持ち、全国に知られていく大きな働きをしたかもしれません。長谷寺のある一帯は旧更級郡の政治と行政の中心の郡役所があったところです。
 大泊瀬皇子→長谷寺→姨捨山
 黒彦が重要な理由は、大泊瀬皇子(おおはつせのみこ)と呼ばれた5世紀の雄略(ゆうりゃく)天皇のお兄さんの名前だからです。地元に伝わるところによると、天皇の地位をめぐる争いに敗れた黒彦王が当地に逃れてきて地名になりました。ただ、日本最古の歴史書の日本書紀には、黒彦王は殺害されたとあるので、実際に逃れてきたことはなかったと思いますが、黒彦王に縁のある人たちが当地にやってきた可能性があります。なぜ、当地にやってきのか。確かなことは分かりませんが、6世紀ごろの創建と伝わる長谷寺の存在が関係あるかもしれません。事実として黒彦王には白彦王という兄弟もおり、一緒に逃れてきて長谷寺を建立したと地元では伝わってきていました。長谷寺に伝わってきたところには、白彦王は出てきませんが、何らかの関連を感じます。
 長谷寺の白助は、奈良県の長谷寺の流れをくんでいます。驚くことに奈良の長谷寺の「はせ」も、大泊瀬皇子(雄略天皇)の宮殿のあった場所であることから付いた名前です。「黒彦」と「雄略天皇」、「白彦」と「白助」―なんとなく、さらしなの里と都に深い関係がありそうな感じがしませんか。当地の山に姨捨山という名前が付けられることになったのは、この四者が何らかの働きをした可能性があるように思えないでしょうか。これまでの先人の研究で、姨捨山の呼び名は「はつせ」「おはつせ」という音の響きと似ていることからできたという説が有力です。
 さらしなの里の〝原始時代〟
 疑問があると思います。天皇家の黒彦の流れをくむ人が来たとしても、なぜ、都から当地にわざわざなのかです。それはやはりさらしなの里の織りなす景観、そこに現れる月の美しさだと思います。当時の国道だった東山道の支道(シリーズ34)も冠着山の北寄りに通っていたので、たどりつきやすい道がありました。
 黒彦という集落についてもう少し説明します。冒頭に書いた幻の水上都市ですが、右上の地図をご覧ください。戸倉町誌の解説をもとに作りました。青色の線が現在の千曲川の流れ、中世までは緑色の部分が千曲川の流れ。黒彦は千曲川の中洲にある大集落でした。「黒彦千軒」とよばれるほどでした。農業を営む人の集落ではなく、今でいえば職人、千曲川の流れを利用した仕事をしていた人も多かったでしょう。東山道という国道があったので、いろいろな人が各地からやってきても不思議ではありません。
 それがたび重なる大雨による洪水で、江戸時代の初めには、なくなってしまいました。現在の黒彦区はその歴史にちなんでつけられた名前です。ただ、その証はいまもあります。黒彦神社は現在の千曲川の流れの東側の千曲市千本柳区に残っています。わたしの実家の菩提寺である勝徳寺も千曲川の東側にあります。川の向こうにあるのは大水で流されたためだと伝わっています。
 雄略天皇の治世の5世紀は、さらしなの里の原始のころ、月の都という言葉ができる前のまだこんとんとした時代です。日本最古の歌集「万葉集」で、最初の歌(右に掲載)を詠んだ大変、重要な天皇に位置づけられています。その天皇の兄が「黒彦王」です。黒彦王に縁のある人たちの会話の中では弟の「おおはつせ(のみこ)」という音が飛び交っていたはずです。自分たちが住み着いた近くには長谷寺もある―その里を代表する山に姨捨山の呼び名をつけたくなってもおかしくはありません。幻の水上都市・黒彦はどんなところだったのか、想像するとわくわくします。

 画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。