更旅233号・万葉集の白に理想世界求めた藤原定家

更旅・万葉集の白とさらしなsamuneiru

鎌倉時代初め、源氏と平氏の争乱後、貴族たちは政治権力を武士に奪われたため文化の原点である古代に回帰した。そのとき貴族たちは、より清浄な白に歴史や文化の価値を求めたという趣旨のことを万葉集の研究者が書いている。
青山学院大学教授の小川靖彦さんの「万葉集と日本人 読み継がれる千二百年の歴史」(角川学芸出版)という本だ。小川さんは、源平争乱とその後の時代を生き、「百人一首」選者となった藤原定家が百歌を選ぶにあたり、日本最古の歌集、万葉集の時代から白に特別な価値を置く歌をあえて選んでいるというのだ。
白の価値を強調する代表歌が持統天皇(645〜702)の次の歌だという。

 春過ぎて夏来にけらし白たへの衣ほすてふ天の香具山

持統天皇は天皇家の祖先神、天照大神をまつる伊勢神宮の20年に一度の建て替え(式年遷宮)を始めるなど、天皇を中心とする国の形をつくるのに大きな力を発揮した女性天皇。初夏になって都の神の山、香具山で白い卯の花がたくさん咲いているようすを純白の衣に見立てた歌とされるが、この歌の表現で重要なのが「衣ほすてふ」だという。万葉集でこの部分の漢字は「衣乾有」となっているので、「衣ほしたり」と読むのが一般的だという。
定家によるこの読み替えについて小川さんは、「衣ほしたり」では干しているその時のようすしか伝わらないけれど、「衣ほすてふ」だと、ずっと干してきた時間の継続性が強調されると指摘。「衣ほすてふ」と読むことで、日本の自然の神秘性と宮廷を中心とする日本の文化の永続性を強調した可能性があるという。
万葉集の時代に詠まれた白の歌として小川さんはあと二つ挙げている。一つは

 田子の浦にうちいでてみれば白たへの富士の高ねに雪は降りつつ

宮廷歌人の山部赤人の詠んだこの歌の「白たへ」の部分は、現代では元の漢字の表記を踏まえ「真白にぞ」と読み下されている。富士山は日本を鎮護する神の山とされていたので、その富士山の姿にも持統天皇の詠んだ都の香具山の純白の白たへのイメージを重ね合わせるよう読者に求める意図があった可能性がある。
もう一つの白の歌。

 かささぎのわたせる橋に置く霜の白きを見れば夜ぞふけにける

万葉集の編纂者である大伴家持の歌。この歌は万葉集には盛られていないが、かささぎは体が黒く肩から背にかけて白が入った鳥で、小川さんによると、中国では七夕の夜、天の川を埋め尽くして橋になり、織姫が彦星のもとに行けるようにしたという伝説があった。
「かささぎの橋に置く霜」とは、冴えて輝く初冬の天の川の星たちを、目の前に降った霜の様子に見立てた表現という。足もとの霜の白さから都の夜空に広がる壮大なスケールの物語を感じさせる秀歌として定家は選び出したかもしれないという。
小川さんによると、古代では白は清浄であるとともに、人間の力の及ばない自然の力を表す色と考えられていた。万葉集で最も多く歌に詠まれた色も白だという。そして次が小川さんのまとめの言葉。

「悠久の時間と繋がりながら自然の神秘に深く感銘し、それを清浄な〈白〉で生き生きと表現した〈古代〉。動乱の時代の中で定家が憧れた〈古代〉はこのような理想的世界であったのです」