シリーズ183号で取り上げた足利義政が銀閣寺を創建した15世紀後半の時代の文化は、「東山(ひがしやま)文化」と総称されます。義政を中心に公家や武家、禅宗の文化が融合した文化をいうのですが、「東山」という呼び名は、京都市の東方で南北に連なる山が古代から「東山」と呼ばれ、その一角に銀閣寺もあるためです。
中学の修学旅行以来、銀閣寺を40年ぶりに訪ねたのは、この「東山」という呼び名が「さらしな」と大きな関連があるのではと思ったのも理由でした。義政は銀閣寺でこの東山の峰から上がる月を楽しんだのですが、ひょっとしたら東山の向こうに「さらしなの里」があると想像していたのではないか。183号で義政の和歌「帰りくる月の都に秋はまだこころを旅の空のかりがね」の中にある「月の都」には、「月の都・さらしな」のイメージが重ねられているかもしれないと紹介したのは、そんなことを考えたからです。
京都の「東山」の山腹には、清水寺など平安時代以降に造立された神社やお寺がたくさん並んでいます。都の人にとって東山は精神文化の大きな支えで、その山の峰から現れる月は、大いに愛でられる対象だったようです。シリーズ49号で紹介した京都の「新更科」という呼び名も、この東山の山腹にあり、東山から上がる月を楽しむための場所でした。同じく49号で紹介した豊臣秀吉の正妻、北政所が建てた高台寺も東山にあり、境内にある渡月橋は東山の月を楽しむためのものでした。
東山にこだわって調べているうちに、さらしなの里が「東山道」という古代に創設された道沿いにあることにも気づきました(詳しくはシリーズ33号)。厳密には東山道とは単に道の意味だけでなく、都から東の地域一帯を指す呼び名でもありました。「とうさんどう」と一般的に読みますが、「ひがしやまみち」と呼ばれることもあったようです。銀閣寺のある「東山」とさらしなの里がある「東山道」…。義政の和歌にある「月の都」の解釈に、さらしなを重ねたくなったのは、同じ「東山」という言葉で銀閣寺とさらしながつながるためでした。
ここに掲載した写真は、京都国立近代美術館から東山方面を望んだもの。巨大な鳥居は平安京の始まりから千百年を記念して明治時代に造立された平安神宮の鳥居で、道の向こう側は京都市立美術館です。後方に連なる山の峰が「東山」です。峯が低いので京都の人にとっては大変身近な感じのする山です。銀閣寺は鳥居の奥の山のふところにあります。
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