166号・米への執着から生まれた美意識

 質問 「田毎の月」という言葉は、シリーズ166号「あこがれの田毎の月・その1」によると、文芸に携わる人などがつくった造語ということですが、いつごろにつくられたのですか?。また、明治時代までは長野県内では善光寺に勝るとも劣らない観光のメッカだったそうですが、それはなぜですか?
 答え 水を張った1枚1枚の田んぼに同時に月を見るというのは美意識です。実際には不可能ですが、棚田をめぐっていると、そう思っても不思議ではありません。それが人間の心の真実です。
 ある方が「棚田の畔に座ってずっと景色を見ていると、必ず何カ所かの田に映る月が見える」とおっしゃいました。こうした人間のものの見方こそが、「田毎の月」という言葉の誕生の土台にあると思います。
 一方で、「田毎の月」というフレーズにはうそと本当が半分ずつ盛り込まれています。だから、面白いのです。
 「田毎の月」という言葉をつくった人は、当地を往来する都の旅人が、千曲市を代表する山の冠着山に「姨捨山」という別称を付けた(詳しくはシリーズ33、34号参照)のと同じように、「いわく言い難いが美しい」と思う対象をどう表現すれば、よりその面白さを多くの人たちに伝えられるだろうかと考えたはずです。
 冠着山に姨捨山の異名が生まれるのは遅くとも奈良時代ごろですが、千曲市が2009年にまとめた「姨捨棚田の文化的景観歴史的調査報告書」によると、「田毎の月」という言葉は戦国時代の上杉謙信までは遡れるそうです。謙信は「おはちまんさん」として当地で親しまれている千曲市八幡の武水別神社に捧げた文書(願文)に、「当地の景観について「田毎満月之影」と記しており、これは当地の棚田が「田毎の月」として世に知れ渡っていたことの証だそうです。
 謙信が活躍した戦国時代は16世紀後半ですから、単純計算で今から約450年前となります。
 ただ、戦国時代だって階段状に連なる水田は全国各地にあったはずです。当地には月を美しく見せる舞台装置があった(詳しくはシリーズ160号)ことが「田毎の月」というフレーズを生み出す大きな理由だったのは間違いないと思いますが、ここでは水田を文芸、美意識の対象として眺めたくなるような日本人の意識について触れたいと思います。
 それは「米」に対するあこがれです。今でこそ米の消費量は減っています。しかし、昔の日本人にとって、白米は何よりもごちそうでした。味にとどまらず、炭水化物の宝庫であるを米食べたときの満足感…。今では肥満、糖尿病のもとなどとして、口にすることを敬遠する空気がありますが、貧困が当たり前の時代は、なによりもごちそうでした。
 そうした貴重なあこがれの食料を提供してくれるからこそ、米を育む水田、そしてそこに映る月もまた大事にしたくなる気持が働いたはずです。棚田は遊び、娯楽の場であると同時に、生き伸びるための場、手段でもありました。
 もともと地元で耕作する人たちは、食べていくために必死ですから、京都をはじめ現代でいう都市部から「田毎の月」を見るためにやってくる人たちにはあまりいい思いを持っていなかったかもしれません。一方で、とはいえ、めったに旅ができる時代ではありませんでしたから、一度一生に一度の「田毎の月」を見るためには全財産をはたいてもいいという人がやってきたとしてもおかしくはありません。
 さて、現代にひるがえってです。もともと亜熱帯の食糧であった米は今では北海道でも栽培され、地球温暖化のせいもあるのか、北海道の米が食味が最も良いと評されるほどに米は当たり前の食べ物になりました。
 さらしな・姨捨の棚田も、耕作が大変で、「買って食べた方が安い」という声も聞くことがあります。買えるだけの現金収入はたやすく手に入る時代です。そんな中でも「田毎の月」と呼ばれることに誇りを持って耕作している方々もいらっしゃいます。そのこと自体が尊いことだと思います。
 上の写真は棚田オーナーとして、棚田の景観を維持するために耕作に参加したときに撮影した写真です。左上に見えるのが千曲川。畔に座って休むと善光寺平が一望できます。画像をクリックすると、PDFが現れ、印刷できます。