163号・鎌倉時代に再発見された「さらしな」

 質問 さらしなの里の純白イメージがより強調されるようになったのは鎌倉時代(1185年ごろ〜)ということですが、それはなぜですか?
 答え さらしなの里が鎌倉時代どんな所だたのかが分かる文献はほとんどありません。しかし、さらしなという地名を詠み込んだ京の都人の和歌がたくさん残っています。それを読み解くと、さらしなの里に思い描かれてきた古人の心の真実(美意識)をみてとることができます。長野県内の名所を題材に詠まれてきた和歌を集めた本「信濃古歌集」(平林富三編、郷土出版社)で、「さらしな」がモチーフの歌を抜き出しているうちに、さらしなに白色を見立てる和歌が鎌倉時代から急増することが分かったのです(詳しくは新刊「地名遺産・さらしな」)。
 鎌倉時代は源氏と平氏の争乱を経て初めて武士の本格政権が誕生しました。平安時代まで日本を治めていた朝廷は政権を失ったため、万葉集以来、天皇家が中心になって築いてきた和歌の文化を集大成することでその存在意義を示そうとしました。それが勅選和歌集「新古今和歌集」なのですが、その編纂に深く関わった「九条良経」という人物が「さらしな=白」の美意識を作り出す大きな働きをした可能性があります。
 彼は天皇の側近の政治家(摂政)でありながら、当時の最高峰の歌人で、新古今和歌集を編む貢献度の高さから同和歌集では彼の歌が巻頭を飾る栄誉を与えられています。その彼が桜の花の美しさで知られる奈良県の吉野山と「さらしな」をセットにした和歌を少なくとも三つ作っています(左の枠内)。これら二つの地名をセットで詠む和歌は彼の時代に始まったようなのです。
 新古今和歌集の巻頭を飾る彼の歌が「み吉野は山も霞て白雪のふりにし里に春はきにけり」と吉野を詠みこんでいるのは、吉野という場所が天皇家にとって特別な場所であることの証拠です(「吉野」の前に付いている「み」は漢字で書けば「御」で、吉野の尊称)。吉野は単なる桜の花の名所ではなく東大寺を建立した聖武天皇ら歴代の天皇が都とは別の宮殿(離宮)を置く山でした。そのような由緒ある山を、都から遠い田舎の山「さらしなの里の姨捨山」とセットで詠むというのはかなり大胆な発想だったと思います。九条良経の心の中では「さらしな」が吉野は高貴で純白なイメージで同列に並ぶものだ可能性があるのです。
 シリーズ161で「雪月花」という平安時代に生まれた日本人の美意識について書きました。その延長上に生まれた美意識と言えます。特に左上の枠の3番目にある九条良経の和歌「ゆき白き四方の山辺をけさ見れば春のみ吉野あきのさらしな」は雪と花(桜)と月が一つに融合させた3点セットの美を詠み込んでいます。さらしな(姨捨山)は雪や花をも連想させる奥行きのある複雑なイメージに昇華したのです。棄老伝説という哀しさがメーンのイメージから純白で清澄な美の世界を想起させる地名になった可能性があります。
 さらしなは鎌倉時代にその美しさが再発見されたのです。「さらしな」という地名の響きに、都人たちが古来、理想としてきた清潔・純白・高潔という美を見出しました。源平両氏の本当にたくさんの流血と犠牲を伴った後の鎌倉時代なので、「さらしな」に対してそんな美意識を抱いたとしても不思議ではないと思います。
 長野県軽井沢町追分にある江戸時代に建立の道標の「さらしなは右 みよし野は左にて 月と花とを 追分の宿」という文言も、そうした美意識の延長上に作られたと思われます(シリーズ17参照、「地名遺産・さらしな」にも収載)。

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