145号・「更科の里」がある京都御所の清涼殿

  天皇の住まいは現在、東京の皇居ですが、江戸時代までは京都御所(京都市上京区)。その京都御所に「さらしなの里」をモチーフにした襖絵があることをシリーズ40、67などで紹介しました。「更科の里」と題された日本画(写真A)で、御所内の清涼殿(写真B)という建物の中の「萩戸」と呼ばれる部屋の内側に描かれているのは分かっていました。ただ、中には上がれないので内部は想像するしかなかったのですが、毎日新聞社の「復元の日本史 王朝絵巻―貴族の世界」(1990年)という本の中で、清涼殿の屋根を外し斜め上から見渡す鳥瞰図を見つけました(中央の写真)。
 それぞれの部屋に番号が添えられており、呼び名を左に列挙しました。萩戸は右上の⑧。内側に二面一組で計四種の襖絵があるのですが、写真では「更科の里」は、⑧という数字が載る二面に相当します。残念ながら、この鳥瞰図では、絵柄は忠実には反映されていないようです。
 そう考える根拠はCの写真です。これも毎日新聞社発行の京都御所を特集した毎日グラフ別冊(1984年)の中にあるものですが、「北の廊下側から萩戸を撮った」と説明が添えられています。鳥瞰図で言うと、「北」という文字があるところから南側を撮影したことになります。右手前の襖には確かに写真Aのような山の形が見えます(この山は姨捨山の別名を持つ冠着山を指すと思われます。詳しくはシリーズ40参照)。
 清涼殿はもともと天皇の日常の住まいに使われた建物です。ただ、清涼殿をはじめ現在の京都御所は江戸幕末、火事で焼失したため再建したもので、再建後の御所では天皇は清涼殿とは別の御常御殿と呼ばれる建物に住んでいました。清涼殿は平安時代の姿になるたけ近くなるように再建したので実際の居住には向いていなかったためですが、西側には天皇の食事を調理する部屋(台盤所)や天皇が朝食を取ったりする部屋(朝餉間)などお勝手まわりの部屋もあり、天皇の住まいの原型が清涼殿にあります。②の昼御座は天皇が書類決済など公務をした所で、仕事場も兼ねていたことになります。
 こうした建物の中での「萩戸」の役割についてですが、研究者の本では「天皇出御の際の部屋」「天皇が常時いる部屋」などと記されており、明確に○○の部屋と断定でるほど分かった段階にはありません。ただ、推測では、天皇が清涼殿から外に出るときに使った部屋であり、公務をしていないときにくつろぐ場としても使われていたような気がします。
 なお、萩戸という名前の由来は、すぐ近くに植物のハギを植えた小さな庭があったためという説があります。現在も鳥瞰図の上。西側になりますが、ハギが美しい庭があるそうです。この部屋だけその役割をうたった名前ではないというところが面白いです。

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