氏神様のお祭り―この「ウジガミサマノオマツリ」という言い方を、さらしなの里・仙石区(旧更級村、現千曲市更級地区)の金井信夫さんから聞いたとき、ワクワクしました。アニメーション映画監督、宮崎駿さんの「もののけ姫」や「千と千尋の神隠し」の世界のような感じ。さらしなの里に関係の深い金井姓を受け継ぐ内外のみなさんが、一族の守り神を一年に一度集まってしているお祭りです。地域の神社のお祭りは全国的に今も盛んですが、一族だけに限定したお祭りがお社のあるところで今も行われているのは珍しいと思います。
初代当主は戦国時代
中央①の写真をご覧ください。金井家では昨年(2010年)、一族の氏神様のお社(石祠)を新しく造営しました。中央がそれで左が古いものです。その際の氏神様を新しいお社に移し替えるお魂替えの儀式に私も同席させてもらいました。この場所は冠着山の扇状地の上部、金井姓の多くの方が住む金井坡地籍。一族のみなさんが新しいお社に向かい儀式を営んでいるのが左の②の写真です。冠着山(別名姨捨山)はこの写真の右の山あいの奥にあります。お昼前の時間帯で幟旗が風に翻り、みなさんの影も伸び、幻想的な光景でした。
一堂に会した写真が上の③(金井慎吾さん撮影)。この撮影の後、お社の前にござを敷き直会で親睦を深めました。若干のお酒とおつまみが出る500円の会費制ですが、手作りの料理を持ち寄った方も。お祭りの日は毎年10月8日ですが、集まりやすいよう付近の日曜を選びます(2009年は10日)。朝から草取りなどみなさんでお社の周りを掃除した上で営まれます。
では、さらしなの里の金井家はどこまで時代をさかのぼるか。現在の金井家の二十代目の当主、金井洋一さんのお宅(佐久市印内、旧望月町)に、「金井家系図写」が伝わっているというので、見せていただきました。二つ折りした和紙六枚(A4版を一回り大きくしたサイズ)を綴じたものに代々の当主それぞれの略歴が記されています。書体と構成から江戸時代末期に新たに書き留めたものとみられ、初代の幸忠さんは約500年前の戦国時代の武士で「小県郡金井郷」に住んでいたとあります(今も、金井という地籍名が上信越自動車道「東部湯の丸インター」付近にあります)。
二代幸国さんは武田信玄側につき、幾度の戦功をあげ、四代の房定さんも川中島合戦などで活躍しましたが、武田氏が滅亡したため、更級村のお百姓さんの家に入っていた家来を頼り更級村に移住、土着したと書かれています。家系図は「後世の人間が都合・体裁よく作ったもの」と言われることがよくありますが、金井家と武田氏との関係を裏付ける根拠と言えるかもしれないのが、祭ってある氏神が「御射山社」(写真④)であることです。
信玄ゆかりの御射山社
御射山社は長野県富士見町と原村の間の林の中にある神社で、武田信玄とゆかりがあるとされています。八ヶ岳美術館(原村歴史民俗資料館)によると、信玄は信濃に勢力を拡大するとき諏訪の豪族、諏訪頼重を最初の攻略先としたのですが、天文11年(1542)、信玄がその本陣を敷いたのが御射山社付近だったそうです。
御射山社の祭神一つ、建御名方命は征夷大将軍、坂上田村麻呂が戦勝祈願をしたり、源頼朝が源氏再興の守護神にしたなど古くから武神、軍神として崇められてきたそうです。御射山社付近では鷹狩などの武芸や相撲など多彩な催しが営まれ、鎌倉時代には全国に聞こえた大祭になったと言われているそうです。こうした由緒ある社であれば信玄が本陣を置いたのもうなづけます。金井家の氏神の最初の造営は川中島合戦を戦った四代房定さんと伝わっているので、信玄とのゆかりをこの氏神様に封じ込めたとも考えられます。
金井姓の由来については、シリーズ128で金井一族が鉄の加工をしていた可能性があると書きました。それとの関係はどうなるか。鉄加工をしていた可能性は戦国時代の前の時代のことなので、先に住んで鉄加工に携わっていた人たちと偶然、同じ姓だったか。もともと当地で鉄加工をしていて川中島と東信州との間で見晴らしもよかった地の利を生かし、武田側に貢献した一族か…勝手な推測です。
右の⑤の写真が現在の当主金井洋一さんと奥様の典子さん。手にしているのが「金井家系図写」です。上の⑥の写真は、戦前、氏神様の敷地にあった松とケヤキの大木。ケヤキの材を戦争に供出するために撮った一族の記念写真です。右の松も1993年、松くい虫で枯れました。松の根元に昨年、引退した古いお社が見えます。仙石区の金井栄貴さんからお借りした写真です。中央の白枠の付いた文様は金井家の家紋、「向かい雁金」と呼ぶそうです。
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