菅原孝標女は少女のころから物語が大好きで、特に「源氏物語」には夢中になりました。「そらんじるほどに」と更級日記の中に書いています。その源氏物語の作者である紫式部が日記も書き残しているというので目を通してみました。この日記が更級日記に大きな影響を与えたのではと思うようになりました。
「紫式部日記」は、1010年(寛弘7)ごろの成立とされます。紫式部も皇族に使える宮仕えの仕事をしたことがあります。彼女の出仕先は一条天皇の妻である中宮彰子で、彰子に仕えた期間のうち、寛弘5年から7年までの宮廷生活の記録です。宮廷の諸行事だけでなく、やはり同時期に宮仕えをし、「枕草子」を著した清少納言への批判が盛りこまれていることでも知られています。
紫式部は出仕する中で源氏物語を書き上げたのですが、一方で自分の日記も書いていたのです。その中で寛弘5年(1008)、師走の12月29日のこと、初出仕から確実に年月が過ぎて、すっかり宮仕え生活に慣れきってしまった紫式部は自分にいやけがさして俊の暮れまた一つ年をとろうとしていること嘆き、次のような和歌を添えています。
年暮れてわが世ふけゆく風の音に心のうちのすさまじきかな(宮仕えの仕事に就いてまた一年が過ぎようとしている。老いてゆく自分の心のうちをのぞいてみれば、木枯らしが吹きすさぶように荒涼としている…)
とぞひとりごたれし
これは更級日記の終盤に出て来て、タイトルにつながった次の歌と文体もよく似ています。
月も出でで闇に暮れたる姨捨になにとて今宵訪ねきつらむ(月も出ていないこの闇夜にあなたはなぜ、捨てられた姥のような身の私のところにお訪ねになったのだろう)
とぞ言われにける
一つの文学作品に感動すると、その作者のことも知りたくなるものです。「年暮れてわが世ふけゆく…」の歌を詠んだ1008年、紫式部は35歳ぐらいで、ちょうど孝標女が生まれた年です。ですから、紫式部は孝標女にとって母親か祖母に近い立場の女性だったと思われます。
紫式部は孝標女が祐子内親王に出仕する前にすでに亡くなっていたとも考えられることから、この世に存在しない人ならば余計に、紫式部が書き残したものはむさぼり読んだでしょう。その中の一つに「紫式部日記」があった可能性があります。
孝標女が何歳のとき、この日記に触れたかは分かりません。ただ、紫式部が宮仕えの仕事につらさを表明していたことは「あの方ですらそうだったのですね…」と自分の宮仕え体験の際の救いになったのではないでしょうか。それだけに晩年になって自分の尊敬していた紫式部が書いた日記のくだりがよみがえってきたとしても不思議ではありません。
孝標女はそうした紫式部の築いた文学を踏まえ、老年の救済のテーマを、自らは「更級日記」というタイトルをつけて発展させたとも言えます。
写真は五島美術館展覧会図録「紫式部日記絵巻と王朝の美」から複写しました。絵巻とは文章に内容にちなんだ絵をいくつも添えた巻物です。左の女性が紫式部で、中央の男性が紫式部を中宮彰子の女房に抜擢し、平安の王朝文学を花開かせた藤原道長です。
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